美輪明宏はハーフなの?国際都市・長崎に生まれ、継母に愛され、原爆と貧困を経験した壮絶な生い立ち

美輪明宏 丸山明宏 黒薔薇の館 1969年
34歳のときの主演映画「黒薔薇の館」より(画像出典)yahoo.co.jp

美輪明宏(丸山明宏)さんは、10代でシャンソン歌手になり、70年以上にわたり歌手・俳優として活躍されています。

美輪さんの若い頃の画像を見て、「ハーフなの?」と疑問に思われる方が多いようです。

このブログ記事では、美輪明宏さんのご両親と生まれ育った環境をさかのぼり、その生い立ちについてまとめます。

プロフィール

美輪明宏(みわ・あきひろ)

美輪明宏 2019年
2019年 84歳の写真(画像出典)SPICE
  • 生年月日:1935年(昭和10年)5月15日 ※2022年で87歳
  • 出身地:長崎県長崎市
  • 本名:丸山明宏(まるやま・あきひろ)
  • 身長:161cm
  • 血液型:A型
  • 学歴:佐古国民学校(現・長崎市立佐古小学校)→海星中学校→国立音楽大学付属高等学校 中退

美輪明宏さんは、1935年(昭和10年)に長崎市に生まれました。

戦後、15歳で上京し、17歳で銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」の専属歌手に。以降、70年以上にわたり歌手・俳優として活躍されています。

美輪明宏はハーフではない!

美輪明宏 丸山明宏 1969年 34歳
34歳の写真(画像出典)産経新聞

美輪明宏さんの若い頃の写真を見ると、大きな二重まぶたの目と鼻筋の通った華やかな顔立ちに、「ハーフなのでは?」と思う方が多いようです。

しかし、美輪さんのご両親は日本人であり、美輪さんはハーフではないと、美輪さん自身がおっしゃっています。

ただし、お母さんがポルトガル人が多い天草地方の出身なので、「母方にポルトガル人の血が入っているのではないか」という噂はあったそうです。

以下、くわしく解説します。


小さい頃の写真画像

美輪明宏 丸山明宏 1937年 2歳
(画像出典)朝日新聞デジタル

この写真は、美輪明宏さんが2歳のときの家族写真です。

左からお父さん、お兄さん(安宏さん)、明宏さん本人、お母さん。つまり、お母さんの膝の上に座っているのが美輪明宏さんです。

2歳年上の兄・安宏さんは、明宏さんの子供時代について、「利口で、目がくりっとして、大人からよくかわいがられていた」と語っています。(※)

※:2009年8月 朝日新聞デジタル「ナガサキノート 青い海と空に励まされた 美輪明宏さん」


両親について

美輪明宏さんの父は丸山作一さん、母はヌメさんというお名前です。

あるインタビューで、美輪さんは「純粋の日本人とはとても思えないので、西洋人の血が混じっているのですか?」と質問され、

そんなことはないです。ただ噂ですが、母が天草系、父が島原系で、昔天草は当時ポルトガル人などの神父が多く住んでいたので、母の家系にポルトガル人の血が入っているのではというのは聞いたことがある。でも噂にしか過ぎないですよ。

2013年1月10日 日豪プレス「新年インタビュー、美輪明宏さん」

と答えていらっしゃいました。

天草・崎津教会
1566年にポルトガル人宣教師が招かれた天草(画像出典)熊本県観光振興課
天草・崎津教会
天草では、江戸幕府の禁教令以後激しい弾圧を受けながらも、キリスト教信仰が続いた(画像出典)熊本県観光振興課

熊本・天草地方がルーツの母・ヌメさんは、結婚前は大阪で働いており、日本赤十字病院で看護婦長をしていたそうです。

長崎・島原地方がルーツの父・作一さんは、長崎市近郊の山間部・田手原村で貧しいなか育ち、成長すると神戸へ養子に出されました。

長崎市田手原町
現在の田手原(現・長崎市田手原町)を英彦山から望む(画像出典)YAMAP

美輪さん曰く「父に騙されて奥さんになった」そうですが、ともあれ作一さんとヌメさんは結婚し、長崎へ戻って商売を始めました。(※2)

長崎市の丸山遊郭に隣接する繁華街で、「世界」という名前のカフェや料亭、また銭湯も経営。戦前は商売が順調で、カフェには20人近くの女給さん(ホステス)が働いていました。(※3)

波乱万丈な生い立ち

美輪明宏さんは、1935年(昭和30年)、丸山作一さん・ヌメさんの次男として誕生し、お手伝いさんもいる裕福な家庭で育ちます。

幼名を丸山臣吾(しんご)といい、家族や従業員たちからは「チーヨ」と呼ばれていました。(※)

※:美輪明宏「新装版 紫の履歴書」水書房, 2007年


国際色の豊かな戦前の長崎

明治中期の長崎港
明治中期の長崎港(画像出典)首相官邸HP

美輪明宏さんの人間観と芸術観に大きな影響を与えたのが、当時国際都市だった長崎という街です。

当時飛行機はなく、外国と行き来するのは船でした。日本の国際港は横浜・神戸・長崎だけだったので、長崎はたくさんの外国人が闊歩する活気ある街でした。

明治中期の長崎・本籠町
明治中期、外国人向け商店街として栄えた長崎・本籠町(画像出典)首相官邸HP

美輪さんの実家が経営していたカフェも、ロシア革命から逃げてきたロシア人の女性がホステスとして働いていたりしたそうです。

軍国主義になる前は、ファッションも国それぞれで、人種差別もなく、自由闊達な雰囲気にあふれていたそうです。そんな環境の下で、美輪さんは幼少期を過ごしました。(※)

※:2020/03/23Yahoo!ニュース「『理解に苦しむものはみんな化け物扱い』――闘い続ける“不死鳥”、美輪明宏の人生」


さまざまな大人を見て早熟に

料亭青柳
丸山界隈の料亭(画像出典)ナガジン!

美輪明宏さんの実家は、丸山遊郭に近い場所でカフェを営んでいました。

美輪さんは、子どもと遊ぶより、店に住み込みで働いている女給さんやボーイさんと遊ぶことが多かったそうです。大人同士の会話や、大人が読む本から、いろいろ学んだとか・・・

カフェでは、先生・警察・政治家などが、酔って女給さんのスカートに頭を突っ込んでる様子など、立派と言われる職業の人の痴態を見る機会がたくさんありました。

思案橋
現在も付近は歓楽街となっている(画像出典)長崎市公式観光サイト

また、遊郭での男女の人間模様も目の当たりにしていましたし、夏などは窓を開けて色事が行われている様子が目に入ってきたそうです。

実家は銭湯も経営していたので、立派な服装の人が貧相な体格をしていたり、汚くて臭い建築作業員(ヨイトマケ)のおばちゃんが立派な裸をしていたり、うわべでは人間の本質はわからないということを体得していきました。

容姿容貌、年齢、性別、国籍、持っているもの、そういったものはいっさい見ない。目の前にいるひとの魂、心がきれいかきれいじゃないか、それだけが問題であって、それが基準になったんです。

2018年12月25日 GQ JAPAN「美輪明宏、差別とのたたかい、そして 男らしさについて語る」




2人目の母から受けた愛情

美輪明宏さんの実母のヌメさんは、美輪さんが2歳のときに亡くなってしまいました。(自伝によると、自宅の火事でケガを負ったのが原因と思われます)


その後、父・作一さんは再婚。2番目のお母さんは、長崎市内の食料品店の娘で、とてもハイカラな女性だったそうです。幼稚園の頃は家族で頻繁に外食をし、その後街で買い物をし、たくさんの洋服・靴・帽子を買っていたとか。

そんな継母さんの影響を受け、美輪さんは幼い頃からオシャレが大好きになったのです。


美輪さんにとって、この継母さんは素晴らしいお母さんで、大好きな人でした。

お父さんと継母さんの間に2人の男の子が生まれましたが、継母さんは自分が産んだ子よりも、美輪さんとお兄さんの安宏さんを大事にしていたそうです。


太平洋戦争の戦況が悪化し、美輪さんが9歳(国民学校3年生)のとき、継母さんと子どもたちは島原半島の千々石町(現・雲仙市)に疎開しました。

雲仙市千々石町
現在の千々石町(画像出典)雲仙市HP

継母さんはそのとき、3人目の弟を妊娠していましたが、丹毒(皮膚の細菌感染症)や昔の手術の後遺症が原因で体が弱っていたそうです。

美輪さんは継母さんに代わって、夜泣きする幼い弟に芋きんとんを作って食べさせたり、おんぶして河原を歩いたり・・・

しかし継母さんは、3人目の弟を早産し、亡くなってしまいました。

亡くなる間際まで「安坊ちゃん・・・安坊ちゃん・・・勉強よ・・・」と、自分の実子ではなく、美輪さんの兄の名をうわごとで呼んでいたそうです。

その姿を見ていた9歳の美輪さんは、

よし、たとえどんなことがあっても、この子達(=継母の実子である3人の弟たち)は僕が立派に育てなければならない。自分の生みの子でもないお兄ちゃんの名前を最後まで心配して呼び続けてくれたお継母ちゃんの立派な心への恩返しにも。

美輪明宏「新装版 紫の履歴書」水書房, 2007年

と心に誓ったのでした。

すべてを奪った戦争と原爆

国際色豊かな長崎の街で、多様な文化を吸収しながら成長していた美輪明宏さんですが、戦争と原爆がすべてを奪っていきました。


太平洋戦争が文化を奪う

太平洋戦争が始まったのは、1941年(昭和16年)12月、美輪明宏さんが国民学校(今の小学校)1年生のときです。

女子挺身隊員の服装が厳しく取り締まられたり、軍歌以外の歌が禁止されたり、カフェのボーイさんが戦地に召集されたり、戦争は日常をむしばんでいきました。

美輪さんのお父さんも「敵国文化での商業はやめなさい」とカフェを廃業させられ、金融業に商売替えをします。モダンで国際色豊かだった長崎は景色を変えていきました。


原爆投下の地獄絵図

1945年(昭和20年)8月9日、美輪明宏さんは国民学校4年生(10歳)。本石灰町の自宅2階で夏休みの宿題の絵を描いていました。絵が得意だった美輪さんが「我ながらよい出来だ」と作品を眺めていたとき、白い強力な光が走ったそうです。午前11時2分、アメリカによる原子爆弾投下です。

長崎 原爆投下
(画像出典)西日本新聞

その後、地響きがし、ガラス窓が割れ、瓦が降ってきまて、美輪さんはお手伝いさんと布団にもぐりこみました。空襲警報が鳴る中、美輪さん・兄の安宏さん・お手伝いさんの3人で防空壕へ避難しましたが、原爆の熱線で全身が焼けただれた人や馬が、苦しみのあまりピョンピョン跳ねている・・・「阿鼻叫喚の地獄絵図」と美輪さんは振り返ります。(※1)

防空壕で父とも合流し、その日のうちに、父の知人宅のある山間部の田手原町へ避難。火の手が上がるなか、歩いて山の方に向かう途中、美輪さんは建物の下敷きになった人に腕をつかまれました。驚いて振り払うと、その人の肉がズルッとむけ、美輪さんの腕にくっつきました。「あれは思い出すのも嫌・・・地獄ですよ・・・」と美輪さんは振り返ります。(※2)


8月15日に終戦を迎え、田手原町から長崎市内に戻ると、さらなる地獄が待っていました。

長崎の美しい街並みは焼け野原になり、焼け焦げた遺体が、がれきの間に放置されたまま残っていました。通りすがりの女性の顔は、ひどい火傷で溶けたようになり、水を求めてさまよっています。病院の前では、髪が抜けて皮膚が焼けただれた人たちが長い列をつくり、体中にウジがわいていました。

「この世の終わり。人類が滅亡した世界のようだった」と語る美輪さん。

長崎 原爆投下後の浦上天主堂
(画像出典)HUFFPOST

原爆投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊しました。

原爆によりお父さんの貸付先が破産し、再々婚した3番目のお母さんも失踪。美輪さん一家は一転、貧しく苦しい生活に陥りました。

音楽との出会い

美輪明宏さんの実家は、長崎市の中心繁華街にありました。家の近くに劇場兼映画館と楽器屋兼レコード屋があり、美輪さんは幼少期から、さまざまな映画・芝居・音楽に触れて成長します。

そして、戦後の1946年(昭和21年)に見た映画がきっかけとなり、美輪さんは歌うことに目覚めました。

美輪さんの美しい歌声に、最初に才能を見出したのは小学校の先生。先生の紹介で声楽とピアノを本格的に習い始めたことから、美輪さんの歌手人生が幕を開けます。

★↓美輪明宏さんが音楽を始めたくわしい経緯はコチラ

歌手として、実家の家族を養った10年間

美輪明宏 丸山明宏 1950年 15歳
15歳の頃の美輪明宏さん(画像出典)Yahoo!ニュース

美輪さんは、長崎の海星中学校を卒業した後、上京して国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)へ入学しました。

でも、1年も経たないうちに実家が破産して中退し、家賃が払えなくなったので下宿も追い出されてしまうことに。(※1)


新宿駅の構内や地下道でホームレス生活を送った日々もあったそうです。新宿駅に立っていると、仕事の手配師がやってきて、楽器や歌ができる人はトラックに載せられ、立川や座間の米軍キャンプに連れて行かれたそうです。そこでバイト代やコンビーフ缶をもらい、必死で食いつなぐ毎日。

当時の美輪さんの口癖は「負けるものか」だったそうです。(※2)


17歳のとき、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」の専属歌手になり、さらに他のキャバレーや進駐軍でも歌手活動をしていました。



実家が破産した後、お父さんとお兄さんは結核にかかってサナトリウム(療養所)に入ってしまったため、美輪さん1人が働いて、実家の生活費と異母弟3人の学費を工面したのだそうです。

美輪明宏 丸山明宏 1954年 19歳
19歳の頃、銀巴里で歌う美輪明宏さん(画像出典)Yahoo!ニュース

「たとえどんなことがあっても、この子達は僕が立派に育てなければならない」

9歳のとき、継母の亡骸に誓った思いを胸に、美輪さんは10年にわたって実家の生活を支えていました。

★↓銀巴里の常連だった作家・三島由紀夫と美輪明宏の関係についてはコチラ

22歳で「メケ・メケ」がヒットして大ブームになった後、同性愛者であることを告白して批判・差別にさらされてしまいます。

また、労働歌や反戦歌を自ら作詞作曲し歌い始めたことから、「そんな歌は共産党の前で歌え」とキャバレーで罵倒されるように。

こうして業界から干されてしまい、それでも仕送りをしなくてはいけないので、この時期は一番ドン底に落ちたつらい時期だったそうです。(※3)


しかし美輪さんは、労働歌である「ヨイトマケの唄」を1965年(昭和30年)30歳のときに発表。この曲が労働者や差別される人々に支持され、大ヒットして再ブレイクするのです。

美輪明宏 ヨイトマケの唄 紅白歌合戦 2012年
2012年、御年77歳にて「ヨイトマケの唄」で紅白歌合戦初出場(画像出典)朝日新聞デジタル

世間の評判

美輪明宏さんの自叙伝「紫の履歴書」のアマゾンレビューから、美輪さんの生い立ちについてのコメントを紹介します。

美輪さんの自叙伝と言うので、どんな内容かと思ったら、文体は結構文学的な物なんですね。長崎の比較的裕福な家に育った美輪さんでしたが、家庭環境は複雑、周りの大人達は一癖も二癖もある様な方ばかり。そんな大人達に囲まれた生活の中、原爆の直撃。美輪さんの原点はこんな所にあったのかという感じです。その後の芸術活動も含め、こういう人生を生きれる人って実は少ないですよね。ある意味特殊な人生だと思います。

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波乱万丈の人生を生きた抜いたことで、生命力が入った楽曲パワーを創り上げた事がこの本から読み取れます!戦後から高度成長期にかけ、美輪さんの独自思想パワーが斬新な楽曲を生み出し、私には衝撃でした!生命の尊厳、家族の絆、愛、すべて起こる事を使命とうけとめてると感じました。

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おそらくこの書を手に取り一読したら、ほとんどすべての人が衝撃を受け、なかには人生観が変わってしまうという人もいるのではないだろうか・・・(中略)私が筆者のような運命に襲われていたら、たぶん自殺しているにちがいないし、おそらく私だけでなく多くの人が耐えられる代物ではないはずだ。それでも筆者は今も生き、迷える我々現代人の羅針盤になりつづけている。

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いわゆる「芸能人手記本」の中ではトップランクに位置するであろう一冊。美輪氏をより理解したいと思うならば、この本を外すことは出来ないだろう。氏は、よく自らを「自分はシンガーソングライターの元祖であり、ビジュアル系の元祖でもある」と評しているが、それが事実であるというエピソードが収められている。

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美輪さんがどのような幼少期、青年期を経て現在までにいたるのかが「愛」の視点で書かれているような気がします。(与えられる愛、与える愛、愛する辛さ、愛される辛さ・・・など)幼少期の戦時中の描写は、戦争を知らない私ですが、読んでいて胸を痛めたほどです。また、恋愛のエピソードも、性別など関係なく、「美しい」と思いました。これも美輪さん自身の表現力なのでしょうか?読みながら涙がポロポロでてしまいました。

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わりと厚い本ですが、先が気になるあまり、一気に読んでしまいました。美輪さんがお若い頃から大変な苦労をされてきた、ということを知って感銘を受けましたが、それ以上に、美輪さんの本物の美や芸術を追い求める姿勢に心を打たれ、頭をカナヅチで殴られたような気分です。

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これは、芸能人の自伝というより文学作品です。ただあったことを記述しているのではなく、描写が丁寧で美しい。文中にでてくる詩も素晴らしいです。三島さんが絶賛された理由がわかります。これを読んでから世の中に起きる出来事の捉え方がよい方に変わりました。

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一般市民の自分には驚愕の体験の数々。(中略)いや小説でしょ、こんなの。ライトノベルかハーレクインしか見たことねーわ。え、事実?(中略)まさに酸いも甘いも体験、である。そんな彼を時の著名人たちも放っておかなかった。大物に愛されるのには、愛される理由があるんだと思った。経験値が必要なのはドラクエだけではないのだな。読むと途中でやめられなくなるから困る 笑。

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この「紫の履歴書」は最初、美輪さんが33歳だった1968年(昭和43年)に出版されました。

初版には三島由紀夫が「これは昭和有数の奇書として推すものである」と序文を寄せたそうです。(※)

またTHE YELLOW MONKEY(イエモン)の吉井和哉さんは、この本を持って家出同然に上京したとか。

美輪さんの波乱万丈な人生から紡がれた言葉に、心を動かされる人は多いようです!

※:ブッククラブ回 1993年冬号「美輪明宏氏に聞く」


まとめ

この記事では、美輪明宏さんのご両親と生まれ育った環境をさかのぼり、その生い立ちについてまとめました。

美輪明宏さんはハーフではありませんが、国際色豊かな戦前の長崎に生まれ、国籍や性別にとらわれない感性を育んでこられたことがわかります。

また、悲惨な戦争・貧困・差別の経験が、長年にわたってブレない信念のもとになっていると感じました。

美輪さんにはこれからも、人生の後輩である私たちに、人間と人生について大事なメッセージを伝え続けてほしいです!

★↓海外ファンも多い伝説の映画!美輪明宏主演「黒蜥蜴」についてはコチラ

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