矢沢永吉の若い頃のロックな画像と壮絶な生い立ち!大好きな祖母の生き様が”自立”のルーツ

矢沢永吉
(画像出典)Sirabee

矢沢永吉さんは、日本のロックミュージシャンの先駆け的存在です。

そんな矢沢永吉さんは、戦後まもなくの広島で被爆二世として生まれ、両親のいないため祖母に育てられました。

このブログ記事では、矢沢永吉さんの若い頃の画像(20代)と、幼少期から高校卒業までの生い立ち、育ての親であるおばあちゃんへの想いについてまとめます。

プロフィール

矢沢永吉(やざわ・えいきち)

矢沢永吉
(画像出典)文春オンライン
  • 本名:趙永吉
  • 生年月日:1949年(昭和24年)9月14日 ※2022年で73歳
  • 出身地:広島県広島市仁保(現・南区)
  • 身長:180cm
  • 血液型:B型
  • 学歴:広島市立大芝小学校→広島市立中広中学校→広島電機大学付属高等学校(現・広島国際学院高等学校)入学→広島市立広島工業高等学校(定時制)に転校し卒業

矢沢永吉さんは広島出身。高校卒業後、横浜に出てアマチュアバンドで活動し、1972年(昭和47年)23歳のときにバンド「キャロル」でプロデビュー

1975年(昭和50年)25歳のとき、キャロル解散に伴ってソロデビューしました。

1978年(昭和53年)に5枚目のシングル「時間よ止まれ」ミリオンセラーとなり、以来多数のヒット曲を出し続けているトップアーティストです。

若い頃のロックな画像

矢沢永吉さんの20代の頃の画像を集めてみました!

24歳~キャロルでプロデビューした翌年の1973年(昭和48年)

★↓1973年3月発売のキャロルのアルバム「ルイジアンナ」のジャケットより

キャロル ルイジアンナ 矢沢永吉
(画像出典)amazon.co.jp

当時の日本のロックミュージシャンは、海外アーティストの影響でみんな長髪だったそうです。

そこへ「ポマードべったりのリーゼント+革ジャン+革パンツ」のキャロルが現れて、不良少年たちのファッションアイコンに!


★↓1973年7月発売のアルバム「ファンキー・モンキー・ベイビー」のジャケットより

キャロル ファンキー・モンキー・ベイビー 矢沢永吉
(画像出典)amazon.co.jp
キャロル ファンキー・モンキー・ベイビー 矢沢永吉
(画像出典)amazon.co.jp




★↓1975年発売の「アーリー・キャロル」のジャケットより

キャロル
(画像出典)ミドルエッジ

キャロルは、フォークソング全盛だった1970年代前半に、ノリのいい日本語ロックとリーゼントファッションで、爆発的ブームを生み出したのでした。




26歳~ソロデビューした1975年(昭和50年)

↓ソロデビュー時のアルバム「アイ・ラヴ・ユー、OK?」のジャケットより

矢沢永吉 アイ・ラヴ・ユー、OK?
(画像出典)amazon.co.jp

キャロル時代の印税をつぎこんでロサンゼルスでレコーディングした気合の一作でしたが、キャロル時代とまったく違う作風だったため、ファンが離れてしまいました。


27歳~1976年(昭和51年)

★↓1976年6月発売のアルバム「A DAY」のジャケットより

矢沢永吉 A DAY
(画像出典)amazon.co.jp




★↓1976年9月発売のシングル「ひき潮」のジャケットより

矢沢永吉 ひき潮
(画像出典)amazon.co.jp

ソロデビューから1年が経って、段々とソロシンガーとして認知され、新たな曲調もファンに支持されて、ライブの動員も増えていきました。




★↓1976年11月発売のライブアルバム「THE STAR IN HIBIYA」のポスターより

矢沢永吉 THE STAR IN HIBIYA ポスター
(画像出典)Aucfree

リーゼントに白スーツ。これぞ永ちゃんという感じですね!

28歳~1977年

★↓1977年発売のアルバム「ドアを開けろ」のポスターより

矢沢永吉 ドアを開けろ ポスター
(画像出典)Aucfree

えっ、ジャニーズの人?と見まごうようなイケメンですね!

キャロル時代から不良少年のカリスマだった矢沢永吉さん。ソロになってもなお、ヤンチャなファンの乱闘や会場破壊行為でタイヘンでした。

そんな状況にもかかわらず、この年、日本のロック・ソロミュージシャンとして初めて、日本武道館での単独公演を開催しました!


29歳~1978年(昭和53年)

★↓1978年、スタジオでレコーディング中の矢沢永吉さん

矢沢永吉
(画像出典)文春オンライン

この年は、矢沢永吉さんの大ブレイクの1年でした。

5枚目のシングル「時間よ止まれ」が資生堂のCMソングになり、ミリオンヒットを記録。

自伝「成りあがり」もベストセラーとなり、長者番付(歌手部門)で1位を獲得。

会場周辺を機動隊が取り囲むなか、8月28日に、後楽園球場(現在の東京ドーム)で単独公演を成功させました。


30歳~1979年

★↓1979年6月発売のアルバム「Kiss Me please」のジャケットより

矢沢永吉 Kiss me please
(画像出典)amazon.co.jp

矢沢永吉さんは、日本のロックスターの頂点に立ち、以後、ロサンゼルスに拠点を移して活動していきました。

生い立ち

矢沢永吉さんの生い立ちを、幼少期から高校卒業まで紹介します。


原爆で全てを失った父と、失踪した母

矢沢永吉さんの父・矢沢永一さんは、戦前、広島で自転車店を経営していました。大きなお店で、7~8人の丁稚を雇っていたそうです。

しかし、原爆によって永一さん以外の家族全員が亡くなり、永一さんはお酒に溺れるようになってしまいました。


終戦後、永一さんは10歳以上年下の女性と再婚します。それが矢沢永吉さんのお母さんです。

永一さんは酒をやめずに借金を重ねているような生活だったので、矢沢永吉さんが3歳のときに、お母さんは家を出て行ってしまいます。


以降、矢沢永吉さんはお父さんと2人で生活していましたが、小学校2年生のとき、お父さんは原爆後遺症で病死してしまいました。


貧困のなか、祖母に育てられる

残された矢沢永吉さんは、親戚のあいだをたらい回しにされます。1学期はこっち、2年めからはあっち、という具合に・・・

最終的に永吉さんは、父方のおばあちゃんに引き取られます。


おばあちゃんは70歳を過ぎても、市役所の紹介で草刈りの仕事をして日当をもらい、そのお金で永吉さんを育てました。


低学年の頃は、悲しいという気持ちではなく「なんで!?」という気持ちだったそうです。

なんでいつも腹を空かせてなくちゃいけないのか

なんで月謝が払えないのか

それが高学年になると、全部理由がわかるのです。「そう、家は貧乏なんだ」と。


食事はごはんと一品のみ。味噌汁だったり、コロッケだったり、好物の卵料理だったり。

誕生日には、おばあちゃんが卵を2つにしてくれたそうです。おばあちゃんは「卵と思って食うな。ニワトリ2羽殺してくれたと思え」と言ったそうです。


小5で掃除の仕事、小6で新聞配達

矢沢永吉さんは、小学校5年生のとき、近所の大きなお屋敷で掃除の仕事をしました。これが最初のバイトだったそうです。

小学校6年生からは新聞配達。どうしたら腹いっぱい食べられるかばかりを考え、自分で働きたいと強く願っていました。

「小学校のガキが、こんなことばかり考えるなんて、異常だよ。そう思いません?」

「説教されて考えるのと違うんだ。それは、まだ幸せ。肌で考えなきゃいけなかったってのが悲しいことよ」

と、著書の中で矢沢永吉さんは語っています。

クリスマスイブの屈辱~「絶対金持ちになってやる」と誓う

小学生の頃のクリスマスイブ、金持ちの鉄工所の息子が、デコレーションケーキを持って歩いてきたそうです。

そして、「おまえの家はこういうの食えないだろ?欲しいか?」と言い、ケーキをちぎって、矢沢永吉さんの顔に投げつけました。

永吉さんは悔しかったけれど、殴りかかることはありませんでした。それ以上に「落ちないでくれ、頬っぺたから。落ちないでくれさえすれば、舐められる」という一念でじっとしていたそうです。


永吉さんは、この頃から強く「絶対に金持ちになってやろう」と思ったそうです。

自分の力ではなにもできない小学校のころに、なにも与えてもらえないってのは、ほんとにつらいぜ。だからオレはいいたいんだけど、政府はそういう小、中学生をもっと援助してやるべきなんだ。オレなんか、小学生のころ、すでに誰よりも金持ちになってやろうって気持ちが芽生えていたんだから、ガキにとって金って怖いね。

「女性セブン」1978年6月22日号(小学館)




ケンカばかりの中学時代と初恋

中学に入った矢沢永吉さんは、番長格でケンカばかりしていたそうです。

仲間同士でタムロし、威張っているやつに目を付けては殴り合い、授業中は椅子を持ち上げて暴れ回り・・・

ワルだったけれど、酒・タバコ・女性関係は二十歳になってからだったそうです。女性よりも、パンを盗むことばかり考えていたとか。


そんな矢沢少年も、中学3年で転校生の女の子に初恋をします。そして、その子から「矢沢君、まじめになって」という手紙をもらい、ケンカをピタっとしなくなったそうです!

矢沢少年とその女の子は、高校に入ってから文通(!)を始め・・・

高校卒業後、矢沢青年が横浜に出て、彼女が神戸の薬科大に進学した後も、しばらく手紙のやりとりが続いたとか。

でも結局、彼女には他にカレシができて、初恋は終わりを告げました。

最後の手紙に「私はいつまでもあなたがご成功なさるように、心から応援してます」と書いてあり、矢沢青年は「どんなことがあってもビッグにならなきゃいけない」と思ったそうです。


ビートルズと出会って音楽を猛勉強

矢沢永吉さんは、15歳のときラジオでビートルズを知って、音楽に夢中になりました。

高校に入学すると、楽典の本・発声の本・声楽の本を買って、独学で音楽の勉強を開始。東京に行ってプロの歌手になりたいという気持ちを募らせていきます。


同時に高校生になると、さまざまなバイトに明け暮れました。中学まではおばあちゃんに育ててもらっていましたが、高校生になってからは自らバイトで生計を立てるように。

東映でフィルム運びのアルバイトをし、三菱で船のシリンダー磨きをし、時には工場の屋根ガラスを希硫酸で磨くという危険な仕事もあったそうです。

高校2年生のときにバイト代でギターを買い、「山中ジャズスクール」の夜間学校でギターを習い始めました。そして高校3年生のときには、おばあちゃんにドラムを買ってもらい、この頃に「アイ・ラヴ・ユー、OK?」(後のソロデビュー曲)の元になる歌を作曲したそうです。

矢沢永吉さんは高校卒業と同時に、アルバイトで貯めた5万円を持って、広島発・東京行きの鈍行列車に乗車。東京の手前、横浜駅で下車したところから、矢沢永吉さんの音楽人生が本格的に幕を開けるのでした。

生き別れの実母と再会

矢沢永吉さんは、3歳の頃に生き別れた実のお母さんと、20歳を過ぎてから再会しています。

会う前は殺したいくらい憎んでいたにもかかわらず、会ったら恨みが氷解したということです。

お母さんは永吉さんに指輪を渡して、それを当時の妻のすみ子さんに贈るよう言い、それがすみ子さんへの結婚指輪になりました。

※のちにその指輪は質に入れられ、キャロルのトレードマーク「革ジャン」の購入資金となるのですが・・・・


働き続けた祖母への感謝

矢沢永吉さんは、自分を育ててくれたおばあちゃんが大好きで、感謝を惜しみません。

最高のおばあちゃんだったよ。オレは女房にも言う。「おばあちゃんは女の鑑(かがみ)だ」って。甘えられるとしたら、おばあちゃんしかいなかった。

矢沢永吉「成りあがり」角川書店, 2004年




親戚たらい回しと貧困のなかで育った子ども時代、矢沢少年の口癖は「おばあちゃん、おもしろくない」でした。

そんな矢沢少年に、おばあちゃんは、時には涙を浮かべながら「おもしろいとこ行け」と言ったそうです・・・


おばあちゃんはたくさん子どもがいて、子どもたちは「うちにいらっしゃいよ」と言っていたのに、おばあちゃんは世話にならなかったのだとか。

市役所の紹介の草刈り仕事で生計を立て、矢沢少年を育てました。


矢沢永吉さんは、

本当に気持ちいいことは、自分で稼いで、その金で暮らすこと。(中略)ほんとに貧乏だったけど、おばあちゃんは教えてくれた。誰にも頼ることなく、自分の手で金を稼いで、それで食べていくのがいちばんカンファタブル(快適)なんだっていうことを。

前掲書

と語っています。

大好きだったおばあちゃんの生き様こそが、矢沢永吉さんの自立心のバックボーンになっているのでしょう。

まとめ

この記事では、矢沢永吉さんの若い頃の画像と、幼少期から高校卒業までの生い立ち、育ての親であるおばあちゃんへの想いについてまとめました。

矢沢永吉さんは被爆二世として、戦災孤児に通じる経験をしていて、その貧困の実体験が強烈なハングリー精神の源になっているのですね。

矢沢さんは著書「成りあがり」のなかで、

「いま生きるのがつらいって言ってる人は、やっぱり、どこかに自分の生き方を決められないって背景があると思うんだ」

「かんじんなのは手前(てまえ)の足で立つことなんだ」

と語っています。

矢沢さんが大好きなおばあちゃんから学んだ「依存しないで生きることの大切さ」は、誰の生き方にも共通することだと、とても心に響きました。

<参考文献> 新装版 矢沢永吉激論集 成りあがり How to be BIG」角川書店, 2004年

★↓↓↓おばあちゃんの次に矢沢永吉を育てた女性=前妻・すみ子さんについてはコチラ

★↓↓↓その次に矢沢永吉を育てた女性=現在の妻・マリアさんについてはコチラ

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