戦後日本を代表する作家である三島由紀夫。
ときは昭和30~31年、天才小説家として『金閣寺』などヒット作を生み出していた傍ら、ボディビルにハマって筋肉ムキムキになっていきました。
このブログ記事では、三島由紀夫が筋肉にこだわった理由・筋トレ方法・スポーツ歴についてまとめたいと思います。
三島由紀夫(みしま・ゆきお) プロフィール
- 生年月日:1925年(大正14年)1月14日
- 没年月日:1970年(昭和45年)11月25日(享年45歳)
- 出身地:東京府東京市四谷区(現・東京都新宿区)
- 本名:平岡公威(ひらおか・きみたけ)
- 身長:163cm
- 学歴:学習院初等科→学習院中等科→学習院高等科文科乙類→東京帝国大学法学部法律学科
三島由紀夫は、1925年(大正14年)東京で生まれました。
祖父は元・福島県知事、祖母は徳川の末裔という超エリート一家。祖父・父・本人と、3代にわたって東大法学部を卒業して、官僚を務めています。
三島由紀夫は13歳で初めて短編小説を書き、東大在学中に川端康成に認められ、作家デビューを果たします。
大学卒業後は大蔵省に就職しましたが、約半年で退職して作家として活躍。「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鏡子の家」「憂国」「豊饒の海」が代表作といわれ、1968年(昭和43年)にはノーベル文学賞の候補になりました。
一方、1967年(昭和42年)には自衛隊に体験入隊。仲間と民兵組織「楯の会」を結成して、国家主義的な政治的志向を強めていきました。
1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ、自衛隊決起を呼び掛ける演説をした後、割腹自決。享年45歳でした。
三島由紀夫が筋肉にこだわったのは、
- 祖母の過保護への反動
- 小学生の頃に病弱・華奢でいじめられたこと
- 弱い肉体と精神のため、軍隊に入隊できなかったこと
- 貧弱な体型を親友・美輪明宏にからかわれたこと
が理由として挙げられます。
以下、1つずつ解説していきます。
祖母がチョー過保護!反動から「男らしさ」を志向
三島由紀夫は都心の超エリート家庭に生まれ、祖母・夏子の過保護ぶりがすごかったそうです。
「2階で子供を育てるのは危ない」と、赤ちゃんだった三島を1階の自分の部屋に引き取り、実の母も授乳のときしか会えなかったのだとか!
その授乳中も、祖母が時間を計っていたというのだから相当です・・・
祖母は礼儀作法に大変うるさく、また三島が5歳で自家中毒(子供に見られる嘔吐を繰り返す病気)を患ったこともあり、外で遊ぶことは禁じられました。
ままごとや折り紙しかせず、祖母の影響で自然と女性の言葉づかいをするように。
三島はその反動から、「男らしいもの」への憧れが強く刷り込まれたそうです。(※)
※:2005年11月26日 テレビ朝日 SmaSTATION-5「美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫」
幼い頃「アオジロ」といじめられた華奢な体型
三島由紀夫は6歳で、当時良家の子供しか入れなかった学習院初等科に入学しました。
女言葉で、女の子の遊びしかできず、病弱で体も小さかった三島は、「アオジロ」や「ロウソク」というあだ名をつけられ、いじめに遭ってしまいます。
一方、祖母の部屋で、谷崎潤一郎や泉鏡花などの本を読み続けていた三島。また、家族で歌舞伎座や帝国劇場へ足を運ぶのが恒例というハイソな家庭でした。そのため文学の才能が早くから開花し、6歳の頃から既に俳句や詩を創作していたそうです。
しかし、小さい頃のいじめの経験は深い傷を残すもの。三島の体型へのコンプレックスは、この頃に深く心に刻まれました。(※)
徴兵検査でバカにされ、兵役に行けなかった劣等感
三島由紀夫は、1944年(昭和19年)5月に、兵庫県の加古川町公会堂で徴兵検査を受けました。
なぜ兵庫県だったかというと、兵庫県印南郡志方町(現・加古川市)が三島の本籍地(=祖父・平岡定太郎の出身地)だからです。
三島の父・平岡梓は、「田舎で徴兵検査を受けた方が、周囲がたくましい分、息子のヒヨワさが目立って兵役逃れできるのではないか」ともくろんでいました。
案の定、みんなが40kgの袋を肩まで持ち上げる中、三島は10cmほどしか持ち上げられなかったそうです。
周囲には笑われ、悔しい思いをした三島由紀夫。
しかし、当時は兵隊不足が深刻で、そんな三島でも第二乙種として検査に合格。
(第二乙種は、現役は免除されるが補充兵役になる職位です)
1944年(昭和19年)10月、当時東大の1年生(19歳)だった三島由紀夫は、陸軍入隊の通知を受け取ります。
泣きわめいて悲しむ母に見送られて、1945年(昭和20年)2月に兵庫県富合村で入隊検査を受けた三島由紀夫。
しかし、東京を出発するときに母親から風邪をうつされ、高熱やせきなどの症状が出ていました。
三島は医師に病状を大げさに報告し、それが肺炎と誤診されて、入隊は認められずに東京へ返されました。
母親を始め、家族は大変喜びましたが、三島は「特攻隊に入りたかった」とつぶやいたとか。
8月に神奈川県の海軍工場で事務員として働きましたが、三島は戦地に赴くことなく終戦を迎えました。
一方、入隊するはずだった兵庫県富合村の陸軍部隊は、フィリピン戦でほぼ全滅・・・
戦死を覚悟していたのに、いざ入隊となると病気を大げさに表現してしまった自分の中の矛盾に、三島は生涯苦しんだようです。
美輪明宏に貧弱な体型をバカにされた!
三島由紀夫は、10歳年下の歌手・美輪明宏(当時は丸山明宏)と親友関係でした。
ある日、三島と美輪さんがクラブでダンスを踊っていたそうです。
当時は肩パッドが入った背広が流行っていて、美輪さんは「あらパット、パットパット、三島さん行方不明だわ、どこいったの?」と冗談を言いました。
体型が貧弱で、肩パッドばかりが目立つとバカにしたわけですね。
三島と美輪さんはいつも冗談を言い合う仲で、ふだんならば三島も笑って返すのに、このときは逆上して「俺は不愉快だ、帰る」と帰宅し、その後しばらく音信不通になってしまいました。
そしてある日「出てこい」と電話がかかってきて、美輪さんが後楽園ジムに呼び出されると・・・
三島はそこでボディビルをやっており、筋肉ムキムキだったそうです!(※)
このように三島由紀夫は、
- 祖母の過保護への反動
- 小学生の頃に病弱・華奢でいじめられたこと
- 弱い肉体と精神のため、軍隊に入隊できなかったこと
- 貧弱な体型を親友・美輪明宏にからかわれたこと
などが心に積み重なっていて、肉体改造に挑戦していったのです。
★三島由紀夫と美輪明宏との関係については↓↓↓
小説取材のために、海外へ行くことが多かった三島由紀夫。英語もペラペラでした。
彼は1953年(昭和28年)~1954年(昭和29年)頃に、アメリカやヨーロッパを旅した際、アメリカのボディビル雑誌を読んで衝撃を受けました。
そして1955年(昭和30年)30歳のとき、雑誌「週刊読売」で早稲田大学バーベルクラブをとりあげた記事を読み、「これなら自分にもできるんじゃないか」と思ったそうです。
早速三島は編集部に電話をかけ、早稲田大学バーベルクラブ主将・玉利齊(たまり・ひとし)を紹介してもらって会いに行きました。
三島は、当時22歳だった玉利氏に対し、
日本の作家はせいぜいバーで酒を飲む程度。女と心中するか芥川みたいに自殺するのがオチ。
自分は私生活は健全で、彼らのように精神まで虚構の中に浸って、虚構の中に自分を埋めることはしない。
と語ったのだとか。
- 頭脳はいつも鍛えているから、世界の文化人と自信をもって話すことができるが、肉体には、見た目・体力・健康のどれも自信を持てない
- 作家は机に向かってする仕事だから、不健康になりやすい
- 人並み以上の健康とたくましさを獲得したい
と言い、「私でもボディビルを始めることができますか?」と尋ねたそうです。
玉利氏が「もちろんですよ」と答えると、三島はとてもうれしそうな顔をして、さっそくトレーニングを始めました。(※)
三島由紀夫は、1955年(昭和30年)9月から、自宅で玉利齊のマンツーマンレッスンを受け始めました。
なぜ自宅かというと、昭和30年当時はスポーツジムがほとんどなかったからです。
最初玉利氏は、三島のか細い体型に驚いたそうです。
↓この写真はトレーニングを始めてすぐの頃のもの。
玉利氏はトレーニングスケジュールを立て、週2回三島宅に通って直接指導を行いました。半年もすると体ができてきたそうです。(※1)
三島由紀夫はその後、後楽園ジムのボディビルコーチ・鈴木智雄と出会います。
鈴木氏は元海軍の体操教官で、1956年(昭和31年)3月に自由が丘でボディビルジムを開業したので、三島はそこに週2回通うようになりました。
ちょうど『金閣寺』を執筆していた時期です。
鈴木氏のジムでは、まず最初に柔軟体操を教わったのだとか。そして1回あたり1時間ほど練習を行い、2年間にわたって通ったそうです。(※2)
- ※1:2018年7月28日 フィジーク・オンライン「JBBA理事長 玉利斉 三島由紀夫氏の死によせて 月刊ボディビルディング1971年2月号」
- ※2:三島由紀夫文学館
- ※3:『週刊現代 増刊・三島由紀夫緊急特集号』,講談社,1970年12月
三島由紀夫は身長163cmと小柄な男性でした。(親友である美輪明宏は161cmとさらに小柄)
ボディビルを始めたときの三島由紀夫は
- 胸幅:79cm
- 体重:48.4kg
でした。
それが、たった3ヶ月後には
- 胸幅:82.5cm
- 体重:51.8kg
と増量しています。
三島由紀夫は努力がハンパないタイプのようで、ボディビルの練習も風邪を引いて3週間休んだほかは、たゆまず続けていました。(※1)
美輪明宏は、三島由紀夫の集中力がすごかったと振り返り、「あのかたは、こうと思ったら絶対なさる方だから」と語っています。(※2)
★三島の親友・美輪明宏の若い頃が美しすぎる!↓↓↓
友人の奥野健男(評論家)が三島家へ年始の挨拶に行くと、お酒をくみ交わしている途中でお手伝いさんが呼びに来て、中庭でお手伝いさんの号令に合わせて腹筋やバーベルを始めたそうです。(※3)
三島由紀夫は、たとえ正月でも、友人と酒を飲んでいる途中であっても、休まず筋トレを続けたのでした。
- ※1:三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」(『漫画読売』1956年9月20日号所収)
- ※2:2005年11月26日 テレビ朝日 SmaSTATION-5「美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫」
- ※3:奥野健男『三島由紀夫伝説』新潮社,1993年
三島由紀夫は、30歳でボディビルを始めるまで、ほとんどスポーツらしいことをしてきませんでした。
やったことがあるのは乗馬くらい。(さすがお坊ちゃま!)
そんな三島が、ボディビルを始めたことを皮切りに、次々とスポーツにチャレンジしていきます。
石原慎太郎にバカにされてやめた「ボクシング」
もともと、ボクシング観戦を愛好していた三島由紀夫。
きっかけは、作家の石原慎太郎に誘われたことでした。
1956年(昭和31年)9月、ボディビルの師匠・鈴木智雄氏から、日大ボクシング部の小島智雄監督を紹介され、練習を始めました。
その理由について三島は、「なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである」と語っています。(※1)
ボディビルの静的な世界にいると、スピードへの欲求が反動的に高まってくるのだと。
そしてボクシングを始めてわずか3ヶ月後、小島監督を相手に、スパーリングでリングに立ちましたが、たった1ラウンド(3分間)で力尽きてしまいました。
その5ヶ月後に再挑戦するも2ラウンドがやっとで、しかもその様子を石原慎太郎(作家・元東京都知事)が8ミリカメラで撮影していたのです。
石原はそのビデオを見て大笑いし、三島も一緒に笑ったものの、自分の哀れな姿・己の限界を知り、ボクシングを断念しました。(※2)
- ※1:三島由紀夫「ボクシングと小説」,毎日新聞,1956年10月7日
- ※2:山内由紀人「三島由紀夫の青春とスポーツ――没後45年に」(『Web版有鄰』第541号,有隣堂,2015年11月10日)
三島由紀夫が剣道五段ってホント?居合抜きや空手も!
三島由紀夫はボクシングをやめた後、1958年(昭和33年)11月から剣道を始めました。
三島が入門したのは、第一生命社長で剣道範士だった矢野一郎氏。中央公論社の嶋中鵬二社長と笹原金次郎編集長に紹介され、入門が叶ったのだそうです。
超売れっ子作家だった三島の、初めての剣道稽古姿は、同年12月の『中央公論・文藝特集号』臨時増刊号にグラビアで掲載されました。
長年にわたり熱心に稽古を続け、1968年(昭和43年)には剣道の段位五段を取得!
三島由紀夫の武道へのこだわりは高じていき、1965年(昭和40年)には居合い抜きも習い始め・・・
1967年(昭和42年)6月に第10回全国空手道大会を見学した後、日本空手綜合道場にも入門しています。
しかし、石原慎太郎著『三島由紀夫の日蝕』などに書かれているとおり、実際の剣道の実力はあまり高くなかったそうです。
有名人だから五段をもらうことができた・・・と揶揄する意見もあります。
もともと運動神経はあまりよくなかった三島由紀夫。
機敏な動きが求められるボクシング・剣道・空手より、静的に自分の肉体を作り込んでいくボディビルの方が向いていたのかもしれません。
また三島は、1964(昭和39年)の東京オリンピックの観戦記も書いていますし、ボクシングや剣道などについての論説もいくつか書いています。
↓三島の東京オリンピック観戦記やスポーツに関する文章が掲載されている本です。
多岐にわたる彼のスポーツ体験は、文筆活動にも大きく関わっていたと言えるでしょう。
ボディビルで肉体を鍛えた三島由紀夫は、その肉体を人に見てもらうことに喜びを覚えていきます。
1959年(昭和34年)に俳優として大映と専属契約し、1960年(昭和35年)にヤクザ映画『からっ風野郎』に主演。
演技はお世辞にも上手とは言えないのですが・・・
体は細いですが、上腕部にはなかなかの筋肉が付いていますね!
そして、江戸川乱歩原作・三島由紀夫脚本・美輪明宏主演でヒット作となった映画『黒蜥蜴(くろとかげ)』にも登場しました。
三島は、美輪さん演じる緑川夫人のコレクション、「人形」の1つとして出演したのでした・・・
★海外でもカルト的人気を誇る映画「黒蜥蜴」については↓↓↓
三島由紀夫の筋肉について、世間の声をTwitterから集めてみました!
三島由紀夫について前田日明さんが、三島のトレーニングはボディビルではなくてウェイトトレーニングだと仰った話、要は三島由紀夫の筋肉は“見せ筋”ではなく“ガチ筋”ということなんだろうけど、前田日明の持つ説得力がすごい。
三島は身体を大きく見せたかったんじゃなくて真に強くなりたかったのだなぁ
病弱だった三島由紀夫は、自分の体をボディビルで作って作って作り上げて映画まで撮ったが、その体を自ら崩壊させた。
『金閣寺』の主人公である若き僧侶も、また信じて信じて信仰の果てに、その美しい信仰の対象である金閣寺に放火したのである。
この「美の逆説」こそが三島文学という気がする。
ボディビルをしてマッチョな印象のある晩年の三島由紀夫だけど、自衛隊の体験入隊で三島の全身見た自衛官の多くが、下半身が細すぎる事を指摘しているんだよね。
みなさん三島由紀夫は死にかたが印象的なのとボディビルとかでイロモノ扱いされがちだけど戦後最高の作家なので読んでみてください。
どれか一冊なら『午後の曳航』、読後の満足感なら『金閣寺』、『美しい星』『夏子の冒険』みたいなエンタメ、剣道男子ものの『剣』とかもあるよ!
三島由紀夫、ボディビルやってみたり自衛隊に入隊してみたり市ヶ谷でライブやったりユーチューバーみがありますね
三島由紀夫が現代に生まれていたら「筋肉体操」かなんかに出ちゃったりして楽しく生きた気がするなあ。
たしかに三島由紀夫って、たくさんのことにガチで挑戦していて、発言もユニークだから、小説だけでなく雑誌にもたくさん登場して、注目を浴びていました。
現代に生きてたら、きっとYouTubeチャンネルやってただろうな~(武田真治とマッスル対決とか)
★坂本龍一の父親は、三島由紀夫をデビューさせた凄腕編集者だった!↓↓↓
この記事では、三島由紀夫が筋肉にこだわった理由・トレーニング方法・三島のスポーツ歴について紹介しました。
ほぼ毎日欠かさず練習を行い、たとえ友達が飲みに来ても、決まった時間になるとトレーニングを始めるというのがスゴイですね!
「これだ!」と思った人には会いに行って、入門してしまう行動力もスゴイ!
ナルシスティックで濃ゆいキャラや、独特の政治的思想で、好き嫌いが分かれる三島由紀夫。しかし、この地道さと行動力こそ、彼が天才作家として数々の作品を残した理由なのかもしれません。