
2022年(令和4年)2月、すい臓がんのため89歳で亡くなられた石原慎太郎さん(作家・元東京都知事)
若い頃の写真が俳優の萩原聖人さんやタレントの武井壮さんに似ていると噂です!
このブログ記事では、石原慎太郎さんの若い頃のイケメン画像、生い立ち、作家になった理由、政治家になった理由をまとめます。
石原慎太郎の若い頃は萩原聖人や武井壮に似てる?
歯に衣着せぬ過激な発言で注目を浴び続けた石原慎太郎さん。
昔の写真はこちらです↓

そしてこちらは、俳優の萩原聖人(はぎわら・まさと)さんの写真↓

口を閉じた表情の慎太郎さんの写真は、たしかに萩原聖人さんに似ていますね!
次に、笑顔の石原慎太郎さんの写真↓

そしてこちらが、百獣の王ことタレントの武井壮さんの写真↓

アクティブでやんちゃな感じの慎太郎さんの写真は、武井壮さんに似ています!
石原慎太郎の若い頃のイケメン画像
石原慎太郎さんの昔の写真を集めてみました!


20代前半の石原慎太郎さんは、かなり爽やかな印象ですね!
次に、弟の石原裕次郎さんとの写真。

慎太郎さんは身長181cm、裕次郎さんは178cmと、当時の日本人男性にしてはかなり長身です。
慎太郎さんは優等生タイプ、裕次郎さんはケンカが強くて自由奔放だったそうですよ!
また石原慎太郎さんは、天才作家・三島由紀夫とも交友がありました。

スポーツ好きな石原慎太郎さんは、三島をボクシング観戦によく連れて行き、三島がボクシングを始めるきっかけを作ったそうです。
★↓三島由紀夫について詳しくはコチラ
40代の写真も紹介。

兄弟ともに、だんだんと貫禄がでてきていますね!
経歴・プロフィール
そんな石原慎太郎さんの経歴はこちら↓
石原慎太郎(いしはら・しんたろう)

- 生年月日:1932年(昭和7年)9月30日
- 没年月日:2022年(令和4年)2月1日(享年89歳)
- 出身地:兵庫県神戸市須磨区
- 本名:同じ
- 身長:181cm
- 血液型:AB型
- 学歴:稲穂尋常小学校(現・小樽市立稲穂小学校)→横須賀市立逗子国民学校(現・逗子市立逗子小学校)に転校→神奈川県立湘南中学校→神奈川県立湘南高等学校→一橋大学法学部→一橋大学社会学部に編入
- 職歴:作家、参議院議員、衆議院議員(環境庁長官、運輸大臣)、東京都知事、その後衆議院議員に復帰
生い立ち

石原慎太郎さんは、1932年(昭和7年)に兵庫県神戸市須磨区で石原潔・光子夫妻の長男として生まれ、2歳違いの弟・裕次郎とともに育ちました。
父の転勤で神戸→小樽→湘南と港町を引っ越し
石原慎太郎さんの父・石原潔は、海運会社の山下汽船(現・商船三井株式会社)に勤めていました。
父・潔が小樽支店の支店長に就任したため、慎太郎が5歳のとき、一家は神戸から北海道小樽市へ引っ越すことに。
慎太郎は弟・裕次郎とともに、マリア幼稚園(現・小樽藤幼稚園)と稲穂尋常小学校(現在の小樽市立稲穂小学校)に通いました。
1944年(昭和19年)、慎太郎11歳のときに、今度は神奈川県逗子市へ転居。
逗子小学校に転校し、名門の旧制中学・神奈川県立湘南中学校へ入学します。(※)
12歳で迎えた敗戦、そして反抗期
旧制湘南中学校は戦前、海軍兵学校の予備校的な存在でした。
しかし戦後は、学制改革によって神奈川県立湘南高等学校となり、民主主義を重視し文武両道を目指すようになります。
スポーツマンだった慎太郎は、高校でサッカー部に所属し、レギュラーとして試合に出場していました。
しかし慎太郎の目には、教師たちが「いかに東大に多くの生徒を入れるか」ばかり考えているように映り、学校生活が苦痛になってきたのです。
そんな折、慎太郎が道で米兵に道を譲らず殴られる事件が起こり、慎太郎は学校に呼び出される事態に・・・
慎太郎は「戦争に負けたからといって、なぜ必要以上にアメリカに頭を下げなきゃいけないんですか!」と教員に食ってかかりました。(※)
その後の石原慎太郎さんの政治信条に通じるエピソードですね。
※:2007年5月19日 Sma STATION!!特別企画「特別対談:石原慎太郎×香取慎吾」
高校休学(不登校)中に文学・芸術にハマる!
高校2年(17歳)のときには、胃腸の病気を理由に1年休学。
慎太郎はこの頃のことを「ただもう学校にいくのがなんとしても嫌でならなかった」と振り返っています。(※1)
休学期間中に慎太郎は、たくさんの本を読み、フランス語を学び、映画を見ました。
そして、なんと200点以上の絵を描いていたのだそうです。(※2)


1年間に200点ってすごい量ですよね。
ヤンチャ坊主だった裕次郎がお説教されている横でも、慎太郎は絵を描いていたのだとか・・・(※3)
石原慎太郎さんの四男は、画家の石原延啓(のぶひろ)さん。お父さんの芸術的素養を継いでいるのかもしれません。

- ※1:石原慎太郎公式サイト
- ※2:2007年5月19日 Sma STATION!!特別企画「特別対談:石原慎太郎×香取慎吾」
- ※3:2022年2月2日 デイリー新潮「【追悼】1枚110万円の作品も 画家・石原慎太郎が『初個展』で息子と並んで見せた笑顔」
少年時代からヨットを所有し、弟・裕次郎は放蕩の道へ
石原慎太郎さんは、中学3年生~高校1年のときにヨットを始めています。
逗子に住んでいた頃に、兄弟でせがんで、親父にヨットを買ってもらってね。小さなヨットだったけれども、一サラリーマンの息子にとっては、過ぎたるものではあった。
でも、バカ息子が成り金のベンツを買ってもらうのとは違っててね。やっぱり我々兄弟だけがプライベートなヨットを持ってるっていうのは、二人のプレステージを大いに高めてくれた。
鍵を貸せば誰でも乗れるっていうもんじゃないからね。これが我々兄弟の人生を大きく変えたと思う。
慎太郎は「一サラリーマン」と言っていますが、父・石原潔は山下汽船の子会社・山下近海汽船で重役の職にありました。
息子たちにヨットを買い与えるほどですから、石原家は相当裕福な暮らしをしていたのでしょう。
弟の裕次郎はスポーツ万能で、慶應義塾農業高等学校(現・慶應義塾志木高等学校)のバスケットボール部で活躍していましたが、ケガでバスケを断念することに。
その頃から裕次郎はワルの道へ足を突っ込み、酒・女・ケンカ・ヨットに明け暮れてました。
たまに家に帰ってきては、母親の預金通帳を持ち出して、放蕩生活を続けていたそうです。
父の急死で京大文学部をあきらめ一橋大へ
慎太郎・裕次郎兄弟の父・石原潔は、酒と過労のせいで若い頃から高血圧を患っていましたが、「仕事で死ぬなら本望だ」と明言するようなモーレツサラリーマンでした。
慎太郎が高校休学を終えた頃、父が脳溢血により、51歳という若さで他界。
慎太郎は京都大学文学部でフランス文学を学びたいと思っていましたが、裕次郎の放蕩生活のせいで、石原家の財政は傾いていました。
そんな折慎太郎は、父の上司だった山下近海汽船の二神範蔵社長から、進路についてアドバイスを受けます。
文学部など出てもろくな給料は貰えない、家族を養うために最近できた公認会計士なる仕事を選べ、これなら最低20万の収入になる、君なら出来る。
家計を支えなければいけなかった慎太郎は、二神社長の助言により1952年(昭和27年)、もともと商科学校であった一橋大学に入学したのです。
※:石原慎太郎公式サイト
石原慎太郎が作家になった理由~「穴埋め原稿」に意外な高評価
石原慎太郎さんは湘南の実家を離れて学生寮に入寮し、一橋大学の自由な校風を謳歌していました。
しかし公認会計士の地道な勉強は、慎太郎の性に合わず、半年であきらめてしまいました。
その頃慎太郎は、『一橋文藝』という雑誌を復刊するためのグループで活動していました。
慎太郎は資金集めに奔走し、なんとか発行費用を工面することができましたが、最後になって原稿が足りないという事態に。
慎太郎は自ら、穴埋め原稿を100枚分書くはめになったので、大学2年の夏休みに原稿用紙を抱えて信州へ赴きました。
ツテをたどって旅館や大学寮に無料で泊まり込み、あまり苦労せず書き上げたのが、処女作『灰色の教室』です。
内容は、弟の放蕩生活をもとにした青春小説。これを評論家の浅見淵氏が絶賛し、慎太郎は「ひょっとすると小説家になれるかも?」と次回作の筆を執りました。(※)
※:石原慎太郎公式サイト
『太陽の季節』で芥川賞を受賞し映画化!あまりの問題作で「映倫」誕生・・・
石原慎太郎さんの2作目の小説こそが『太陽の季節』でした。
慎太郎はこの作品について「裕次郎から聞かされた時、そのえげつなさに感心した話を基に据えた、若い男と女の逆説的な愛の物語」と語っています。
慎太郎はこの作品をたった2晩で書き上げ、3日間念入りに校正し、合計5日間で完成させました。
そして1955年(昭和30年)に第1回「文学界新人賞」を受賞し、翌1956年(昭和31年)には第34回「芥川賞」を受賞。そのとき慎太郎はまだ23歳で、当時史上最年少での受賞でした。
小説中の過激な性と暴力の描写が話題になり、夏の海辺で無秩序な行動をとる不良若者集団が「太陽族」と呼ばれるように。
「慎太郎刈り」というヘアスタイルまで流行し、社会現象となりました。

この作品は、長門裕之・南田洋子主演で映画化されることに。

ところが、この映画の影響で若者が「不健全」な事件を多数起こしたことから、「青少年に悪い影響を与える」として社会問題になりました。
そしてこれをきっかけに映倫管理委員会(映倫)が設立され、事前に映画の内容が審査されるようになったのです・・・
まさしく、日本映画史を変えた問題作でした。
弟・石原裕次郎を芸能界デビューさせる
映画『太陽の季節』の撮影のとき、スタッフの1人として関わっていたのが、弟の石原裕次郎(慶應義塾大学を中退し、当時無職)。
原作に登場する文化風俗などをアドバイスする考証スタッフだったそうです。
しかし、役者の数が足りなくなったため、急遽脇役として出演することに。

期せずしてこれが石原裕次郎のデビュー作となりました。
その後慎太郎は『狂った果実』を執筆。映画化をもちかけてきた日活に「私の弟を主役にしてください」と売り込んだのです。
映画化したら大当たり間違いなしの超人気作家の頼みに、日活も嫌とはいえず、裕次郎のデビューが約束されました。

そして映画『狂った果実』は大ヒットし、石原裕次郎は国民的スター俳優になっていくのです。

石原慎太郎さんの売り込み手腕、すごいですね!
※:2007年5月19日 Sma STATION!!特別企画「特別対談:石原慎太郎×香取慎吾」
石原慎太郎が政治家になった理由~ベトナム戦争を取材して
その後、作家や映画制作の活動を続けていた石原慎太郎さんですが、1967年(昭和42年)34歳のときに転機を迎えます。
それは、読売新聞社の依頼で行ったベトナム戦争の取材。
慎太郎が取材したベトナムの知識人たちは、大変深い教養をもっていながら、長年にわたる戦争で心が疲弊し、国家の未来に無関心な状態になっていたのだそうです。
慎太郎は帰りの飛行機の中で、ベトナムと日本の知識人に共通点を感じ、「日本もまたいつの日か自由主義体制が侵食され崩壊する日が来るのではないか」と懸念しました。(※1)
それをきっかけに、慎太郎は政治家になることを決心し、1968年(昭和43年)7月に自民党から参議院全国区に出馬。
慎太郎は、史上初の301万票を獲得しトップ当選を果たしたのです。
この初当選の際、慎太郎は「いずれは総理大臣を目指すよ」と語っていたとか。(※2)
実は同じ選挙で、青島幸男(放送作家・タレント)や横山ノック(漫才師)も当選しており(しかもみんな同じ36歳!)、タレント議員の誕生は既成政党にショックを与えました。
- ※1:石原慎太郎公式サイト
- ※2:2022年2月9日 AERA dot.「【追悼】石原慎太郎さん 山崎拓『大統領制だったらトップになっていた』」
世間の声
石原慎太郎さんの若い頃について、twitterから意見を集めてみました!
昨日からいろんなニュース見てましたけど若い頃の石原慎太郎さんがイケメンすぎた
https://twitter.com/tanomusakufyoko/status/1488621595648458752
若かりし頃の石原慎太郎さんと裕次郎さん 兄弟揃ってイケメンすぎる。
https://twitter.com/hiro11233763/status/1489532537303367683
夫と二人で、石原慎太郎・裕次郎兄弟がいかにいけてたかと子供に説明する場面があり、「キムタクのような」と例を出してみたが、子供たちはキムタクは知っているもののイケメンの代名詞みたいな知識はなく、いまいち伝わらなかった。今だと誰なんだ。
https://twitter.com/mou_ushida/status/1261912635760508935
めざましテレビが石原慎太郎特集みたいになっててチラッと見たけど、若い頃の話し方であったり、身にまとう雰囲気が橋下徹さんとすごく似ていた。
https://twitter.com/ilovecat222/status/1488702357815042051
石原慎太郎も、若い頃は好き放題書いて表現の自由を謳歌したけれど、年取ったら規制派のドンになりましたよね。
https://twitter.com/kanenooto7248/status/1047894238996779008
かつて石原慎太郎が71歳だった美濃部都知事に「前頭葉の退化した60、70の老人に政治を任せる時代は終わった」と政治を若者の手に!と突きつけたけど、自分が80歳になった時には「若い連中に政治を任せたらこの国は終わる」と語っていました。
https://twitter.com/tisensugimura/status/1323075417260007424
石原慎太郎は政治家として絶対に許されない発言が毒舌タレント扱いで許されてきた経緯があると思う。石原慎太郎も橋下徹も、ある意味タレント議員だという面が大きい。
https://twitter.com/nasitaro/status/610398267960983552
石原慎太郎とかこの人(森喜朗)について、「老害」と指摘する人がいるけど、違うから。どちらも若い頃からこうだった。
https://twitter.com/shamilsh/status/1356897452918366209
石原慎太郎が暴言ゆえに支持されるとしたら、毒舌キャラの芸人が受けるのと同じ理由なのかも。
https://twitter.com/pulin_gkd/status/47285964502077440
若い頃の写真がイケメンという意見が多かったです!反面、過激な発言については賛否両論でした。
作家としては表現の自由の限界に挑戦する感じだったかもしれませんが、政治家としては人権感覚を問われるように思います。
まとめ
このブログ記事では、石原慎太郎さんの若い頃のイケメン画像、生い立ち、作家になった理由、政治家になった理由をまとめました。
苦労させられた弟の実体験を小説に書いて作家デビューし、芥川賞を獲得。
無職の弟を映画会社に売り込んで大スターにし、裕次郎&石原軍団の応援で選挙でも勝利。
公認会計士にはなれなかった慎太郎さんですが、ビジネス的才覚と勝負運がすごいと思いました!
最後までお読みいただきありがとうございました!
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