沢田研二の若い頃の人気は超ド級!イケメンすぎて失神女子が続出した元祖ビジュアル系

1960年代にデビューし一世を風靡したスーパースター、沢田研二さん

ジュリーの愛称でおなじみの沢田さんは、70歳を過ぎた現在も、精力的にコンサートを続けています。

そんなジュリーの若い頃がかっこよすぎる!

イケメンすぎて、ステージからファンを指さすだけで、何人もが失神していったという伝説も!

このブログ記事では、ジュリーの若い頃の人気を物語るエピソードを紹介し、さらに幼少時からの生い立ち独立前までの音楽活動の歩み奇抜なステージ衣装の画像をまとめます。

  1. 沢田研二のプロフィール
  2. 沢田研二の若い頃の凄まじい人気~機動隊が出動し、数人の影武者も
    1. イケメンすぎて失神する女子が続出!!
    2. 押しかけるファンに機動隊出動!!
    3. 影武者でファンをおびき寄せている間にジュリー脱出!
  3. 沢田研二の生い立ちと通った学校~京都・銀閣寺で生まれ育った野球少年
    1. 京都は銀閣寺の近くで、次男坊として生まれる
    2. 第三錦林小学校時代~野球が大好きなスポーツ少年
    3. 岡崎中学校時代~プロ野球選手を目指すも挫折
    4. 鴨沂高校時代~空手部に入部するも中退
  4. 沢田研二の若い頃のバンド活動~ファニーズからザ・タイガース
    1. 高校1年でダンス喫茶「田園」のステージに
    2. ファニーズとして京都から大阪へ進出し、内田裕也がスカウト
    3. 上京後「ザ・タイガース」としてデビューし空前の大ブレイク
    4. 愛称「ジュリー」の由来は女優のジュリー・アンドリュース
    5. メンバー交代、GSブームの終焉、そしてザ・タイガース解散
  5. 伝説のスーパーバンド「PYG(ピッグ)」として
  6. 沢田研二のソロ活動~70~80年代の約10年間にわたり大ヒット曲を連発
    1. ヒット曲を連発し「勝手にしやがれ」でレコード大賞を受賞
    2. 海外進出し、フランスでは日本人初のゴールデンディスク賞!
    3. 奇抜な衣装とメイクで話題をさらった「ビジュアル期」
  7. タイガース時代のジュリーの評判
  8. まとめ

沢田研二のプロフィール

沢田研二(さわだ・けんじ)

沢田研二
(画像出典)NEWSポストセブン
  • 生年月日:1948年(昭和23年)6月25日 ※2021年現在 73歳
  • 本名:澤田研二(さわだ・けんじ)
  • 愛称:ジュリー
  • 出身地:京都府京都市 ※出生地は母の実家がある鳥取県鳥取市
  • 身長:171cm
  • 血液型:A型
  • 学歴:京都市立第三錦林小学校卒業→京都市立岡崎中学校卒業→京都府立鴨沂高等学校中退

ジュリーは1948年(昭和23年)に京都で生まれ、高校時代に「ファニーズ」というバンドを結成し、京都・大阪で活動していました。

その後スカウトされて上京し、バンド名を「ザ・タイガース」に変更しました。

沢田研二の若い頃の凄まじい人気~機動隊が出動し、数人の影武者も

ザ・タイガース時代のジュリーの美しさ・かっこよさ・イケメンぶりを物語るエピソードはたくさんあります。

イケメンすぎて失神する女子が続出!!

ファニーズ
右から2番目がジュリー(画像出典)ナンバ一番 ブログ

ファニーズは1966年(昭和41年)に京都から上京し、大手芸能プロの渡辺プロダクションに所属しました。

中尾ミエさんをはじめ、渡辺プロ所属の女性タレントは全員、ジュリーの美しさにポーっとして卒倒してしまったそうです!(※1)

中尾ミエ
中尾ミエさん(画像出典)テレビ朝日

そしてザ・タイガース4枚目のシングル「君だけに愛を」では、ジュリーが客席のファンを指さし

君だけ~に~♪

と歌うシーンで失神女子が続出!

沢田研二 ジュリー ザ・タイガース
(画像出典)ガールズちゃんねる

ジュリーの人差し指は「黄金の人差し指」と呼ばれていました。(※2)

失神したファンたちは、裏方スタッフがリヤカーに乗せて運んだそうです・・・

とても重かったのだとか!(※1)

押しかけるファンに機動隊出動!!

デビュー当時、ザ・タイガースのメンバーは東京世田谷区・千歳烏山の合宿所で生活していました。

ファンは合宿所にも押しかけて、部屋をのぞきこむことがあったそうです。

ファンが大挙してやってくるので、機動隊が出動して整理にあたっていたとか!

そして移動のときはパトカーが先導したり、信号を止めたり・・・(※1)


ちなみにファンの間では、タイガースのメンバーの「実家訪問」がよく行われていたとか。

修学旅行で京都に行くときなどに、ジュリーの実家を訪ねる人が後を絶たなかったそうです。

「優しそうなお母さんで、ジュリーの子どもの時の写真を見せてくださって。今から思うとようあんな厚かましいことしました」

と、当時ファンだった女性は語っています(※2)

  • ※1:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 熱狂のザ・タイガース 2」週刊文春 2021年7月8日号
  • ※2:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 熱狂のザ・タイガース 1」週刊文春 2021年7月1日号


影武者でファンをおびき寄せている間にジュリー脱出!

ザ・タイガース
(画像出典)デイリースポーツ

そんなジュリーには当時、「影武者」が何人かいました。

コンサートが終わった直後は、興奮した女の子たちが大勢出待ちをしていて、会場から出られなかったので・・・

影武者が先に出て、女の子たちをひきつけている間に、隙をねらってジュリーが脱出

トラックの荷台に隠れて抜け出すこともあったそうです・・・(※)

昔も今も「推し」に熱狂するファンの姿は見られますが、昔のファンは見境がないというか、向こう見ずな勢いを感じますね。

今の若者たちの「おばあちゃん」の世代ですよ!

※1:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 熱狂のザ・タイガース 2」週刊文春 2021年7月8日号


沢田研二の生い立ちと通った学校~京都・銀閣寺で生まれ育った野球少年

類まれなる容姿と音楽センスに恵まれ、失神させた女子は数知れず。

そんなスーパースター・ジュリーの生い立ちと音楽活動は、どんな様子だったのでしょうか?


京都は銀閣寺の近くで、次男坊として生まれる

赤ちゃんの頃の沢田研二 ジュリー
赤ちゃんの頃のジュリー
(画像出典)「ジュリーが君だけに見せる写真集」ティーンルック30号,主婦と生活社,1968

ジュリーは1948年(昭和23年)に、父・松雄さん母・智恵子さんの次男として誕生しました。

出生地は両親の実家がある鳥取市。その後、京都市で育っています。

上にお兄さん、下に妹さんがいる3人きょうだいの真ん中です。

生まれ育った場所は銀閣寺の近く

毎年8月16日の五山の送り火で有名な大文字山のふもとです。

大文字山
大文字山(画像出典)写真AC

当時、近くの白川通に路面電車(市電)が通っていて、ジュリーは「電車通りから3軒目の沢田さんちの次男坊」と言われていたそうです。(※)

※:2018年6月28日「法テラス」インタビュー Vol.2 沢田研二さん


第三錦林小学校時代~野球が大好きなスポーツ少年

小学校2年の沢田研二 ジュリー
小学校2年のジュリー・・・超美少年!
(画像出典)「ジュリーが君だけに見せる写真集」ティーンルック 30号,主婦と生活社,1968

ジュリーが通ったのは、地元の京都市立第三錦林小学校(だいさんきんりんしょうがっこう)。

子どもの頃の夢は「プロ野球選手」で、とにかくスポーツばかりやっていたと語っています。

でも心の底では、歌手や俳優に憧れていたとか。


ジュリーのお父さん(澤田松雄さん)は、昔俳優を目指しており、映画監督・衣笠貞之助(きぬがさ・ていのすけ)の付き人をしていました。

衣笠貞之助
映画監督の衣笠貞之助氏(画像出典)NHK

しかし結局松雄さんは、俳優になることをあきらめて、京都府舞鶴市にある火薬研究所の関連企業で働いていたそうです。(舞鶴市は戦前は日本海軍の基地がある軍都でした)

ジュリーはお父さんの姿を見て、歌手や俳優は実力だけではなれないのだと思ったようです。

ジュリーは「自分はどうせなれっこない」という気持ちで、実力が物をいう野球の練習に打ち込んでいました。(※)

※:2018年6月28日「法テラス」インタビュー Vol.2 沢田研二さん


岡崎中学校時代~プロ野球選手を目指すも挫折

中学校2年の沢田研二 ジュリー
中学2年生のジュリー
(画像出典)「ジュリーが君だけに見せる写真集」ティーンルック 30号,主婦と生活社,1968

中学校は、平安神宮の近くにある京都市立岡崎中学校

ジュリーは野球部のキャプテンで、ファーストを守っていました。

将来の夢はさらに具体的になり「立教大学へ進んでプロ野球選手になること」

しかし、中学3年生のときの大会が京都市4位という残念な結果に終わり、野球をやめてしまいます


鴨沂高校時代~空手部に入部するも中退

ファニーズ時代の沢田研二 ジュリー
ファニーズ時代のジュリー
(画像出典)「ジュリーが君だけに見せる写真集」ティーンルック 30号,主婦と生活社,1968

ジュリーは中学卒業後、京都御所の隣にある京都府立鴨沂(おおき)高等学校に進学します。

1872年創立の伝統校で、制服のないリベラルな校風でした(※平成25年度に制服を導入)。

京都府立鴨沂高等学校
京都府立鴨沂高校(画像出典)みんなの高校情報

ジュリーは空手部に入部しましたが、打ち込んでいた野球をやめて心にポッカリ穴が空き、学校に通うのが面白くなくなってしまったそうです。

音楽活動が本格化した後、ジュリーは鴨沂高校を中退することになります。

沢田研二の若い頃のバンド活動~ファニーズからザ・タイガース

ジュリーは高校1年のとき、友人の誘いで、京都の河原町仏光寺にあったダンス喫茶「田園」に出入りするようになりました。

ジュリーの親友のお姉さんの彼氏が「田園」のバンドマスターだったのです。(※)

※:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 沢田研二を愛した男たち 3」週刊文春 2021年4月29日号


高校1年でダンス喫茶「田園」のステージに

2012年1月18日 NHK SONGS 第204回 沢田研二 ザ・タイガースを歌う
(画像出典)2012年1月18日 NHK SONGS 第204回「沢田研二 ザ・タイガースを歌う」

当時のダンス喫茶は「不良のたまり場」

ジュリーはダンス喫茶「田園」で、「おまえ、男前やないか」「1曲覚えてきたら歌わしたる」と言われて、一生懸命覚えて歌ったそうです。

ちょうどそのとき、京都の高校生4人のバンド「サリーとプレイボーイズ」がボーカルを探していました。

  • 岸部一徳
  • 瞳みのる
  • 森本太郎
  • 加橋かつみ

の4人です。

「田園で歌っている沢田研二」の評判を聞きつけた岸部一徳に誘われ、同年代に声を掛けられたことがうれしかったジュリーは、17歳でメンバーに加わりました。(※)

※:2018年6月28日「法テラス」インタビュー Vol.2 沢田研二さん


ファニーズとして京都から大阪へ進出し、内田裕也がスカウト

1966年(昭和41年)、ジュリーの加入と同時に、サリーとプレイボーイズは「ファニーズ」と改名。

大阪の有名ジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションに合格し、週2日の契約で出演するようになりました。

ナンバ一番
(画像出典)ナンバ一番 ブログ

ファニーズは会員300人のファンクラブができるほどの人気ぶりで、東京のプロダクションからスカウトを受けるように。

そして、内田裕也氏がナンバ一番に来場し、ファニーズのステージを見て自分のバックバンドにしたいと、「君たち、俺と一緒にやんねぇか」と声を掛けたそうです。(※)

2012年1月18日 NHK SONGS 第204回 沢田研二 ザ・タイガースを歌う
(画像出典)2012年1月18日 NHK SONGS 第204回「沢田研二 ザ・タイガースを歌う」

その後内田裕也さんから音沙汰がなかったので、ファニーズのリーダー・瞳みのるさんが単身上京して裕也さんと面会し話を進める約束を取り付けました。

1966年10月にナンバ一番で、裕也さんが所属していた渡辺プロダクションのオーディションを行い、ファニーズは渡辺プロと正式に契約

1966年11月9日に、東海道新幹線で上京したのでした。

※:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 沢田研二を愛した男たち 2」週刊文春 2021年4月22日号


上京後「ザ・タイガース」としてデビューし空前の大ブレイク

上京してすぐ、ファニーズはフジテレビ「ザ・ヒットパレード」に出演することになり、バンド名を変更することに。

当時フジテレビディレクターだったすぎやまこういち氏(ドラクエの全曲を作曲。2021年に死去)が、「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」と発言し、バンド名は「ザ・タイガース」になりました。

1967年(昭和42年)2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。

ザ・タイガース 僕のマリー
(画像出典)amazon.co.jp

最初は売れ行きが伸び悩んだものの、翌3月には人気がブレイクし、5月発売のセカンドシングル「シーサイド・バウンド」40万枚の大ヒットに。

ザ・タイガース シーサイド・バウンド
(画像出典)amazon.co.jp

テレビ出演により中高生にもファン層が広がり、活動の舞台はジャズ喫茶からコンサートへと移っていきました。


翌1968年には、発売するシングルが全て大ヒット

3月10日には「花の首飾り」の新曲発表会を日本武道館で、8月12日には「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」後楽園球場で開催。

ザ・タイガース 花の首飾り 銀河のロマンス
(画像出典)amazon.co.jp

現在はトップアーティストたちが当たり前のように行っている「武道館コンサート」と「球場ライブ」を、日本人音楽バンドで初めてやったのが、ザ・タイガースでした。


4月には初の主演映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』が公開。

世界はボクらを待っている ザ・タイガース
(画像出典)amazon.co.jp

ザ・タイガースは、渡辺プロによるアイドル的な売り出しにより、グループサウンズ(GS)の頂点に立ちます。

愛称「ジュリー」の由来は女優のジュリー・アンドリュース

ザ・タイガースは上京後、内田裕也氏の指示で、メンバーにニックネームを付けることになりました。

  • 岸部一徳:のっぽのサリーから「サリー」
  • 瞳みのる:キューピーから「ピー」
  • 森本太郎:本名から「タロー」
  • 加橋かつみ:トッポ・ジージョから「トッポ」

そして沢田研二は・・・

最初は歌手のジェリー藤尾のファンだったことから「ジェリー」にしたいと思ったそうです。

ジェリー藤尾
当時の人気歌手・ジェリー藤尾。代表曲は「遠くへ行きたい」
(画像出典)スポニチAnnex

しかし名前をいただくのは失礼かと思い、同じくファンだった女優のジュリー・アンドリュースから「ジュリー」という名前にしました。

ジュリー・アンドリュース
(画像出典)amazon.co.jp

ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』は不朽の名作ですね!

サウンド・オブ・ミュージック
(画像出典)amazon.co.jp

ちなみに・・・内田裕也氏はジュリーの芸名を「沢ノ井謙」にしようとしてたそうです。

「名前はひとつでいい(=本名でいい)」とジュリーに却下されましたが・・・(※)

沢ノ井謙って演歌歌手みたいですよね(笑)

※:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 沢田研二を愛した男たち 2」週刊文春 2021年4月22日号


メンバー交代、GSブームの終焉、そしてザ・タイガース解散

ザ・タイガース
(画像出典)東京スポーツ

もともとビートルズやローリングストーンズを英語で歌っていたザ・タイガース。

アイドル路線の売り出し方をめぐって、メンバー間の意見に食い違いが生じます。


加橋かつみはアイドル路線を嫌いましたが、ジュリーは与えられた仕事に全力投球していました。

そしてデビュー当初から、容姿端麗なジュリーに人気が集中しており、徐々にギャラにも差が生じていき・・・


デビュー3年目の1969年(昭和44年)、加橋かつみがザ・タイガースを脱退し、岸部一徳の実弟・岸部シローが加入。

しかし、学生運動が広まるにつれて、メッセージ性あるフォークソングが台頭してきて、王子様スタイルのGSブームが終焉していきます。


ジュリー自身は最期まで解散に反対していたそうですが、そうしたグループ内外の動きによって、ザ・タイガースは解散

1971年1月24日に日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を最後に、4年間の活動を終えました


ジュリーはこの頃のことを

ザ・タイガースはたった4年間でしたが、チョコレートの会社の宣伝で、自分の顔が街角街角に貼り出されたり、今では当たり前になっていますが後楽園球場でコンサートをやったり。

実際は七転八倒してきた結果ではあるけれど、誰もができることではない、貴重な経験をさせてもらったと思います。

2018年6月28日 日本司法支援センター法テラス インタビューVol.2 沢田研二さん

と振り返っています。


伝説のスーパーバンド「PYG(ピッグ)」として

PYG 自由に歩いて愛して
(画像出典)amazon.co.jp

1971年2月1日、新しい音楽グループ「PYG(ピッグ)」が誕生します。

メンバーは

  • 沢田研二(元 ザ・タイガース)
  • 岸部一徳(元 ザ・タイガース)
  • 大野克夫(元 ザ・スパイダース)
  • 井上堯之(元 ザ・スパイダース)
  • 萩原健一(元 ザ・テンプターズ) ※ショーケン
  • 大口広司(元 ザ・テンプターズ)

という、グループサウンズ(GS)のトップメンバーたち。


ザ・タイガースの少し前にザ・テンプターズが解散したとき、内田裕也氏「沢田とショーケンのバンドを、どうしてもやりてえ」と言ったのだそうです。

岸部一徳がジュリーを誘い、ジュリーは「サリー(岸部さん)がいてくれるなら」と加入を決心。

ジュリーとショーケンのツインボーカルで、大野克夫・井上堯之といった一流プレイヤーが作曲・演奏を固めました。


ジュリーは、「PYGのときが一番楽しかった」「楽しくて楽しくてしょうがなかったなぁ」と振り返っています。

タイガース時代は難しい曲はできなかった。

ところが大野さんと井上さんがいてくれることで、「この曲やりたい」と言ったらすぐやってくれるわけね

島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 自由・反抗・挑戦 5」週刊文春 2021年10月21日号

とりわけ大野克夫氏は、京都は四条堀川の呉服屋に生まれ、お父さんは尺八奏者、お母さんは琴奏者。

家にはピアノ・バイオリン・マンドリン・アコーディオン・尺八・三味線・琴などがあり、小さい頃から興味本位で触っているうちに、どんな楽器も弾けるようになったという音楽の天才でした。

PYGのメンバーが歌いたい曲のレコードを持ち寄ると、大野さんが次の日には楽譜にして、練習することができたのです。

思う存分練習ができて、歌いたい曲が歌える理想の環境でした。(※1)

PYG GOLDEN BEST
(画像出典)amazon.co.jp

がしかし、PYGの活動は、うまくいかないまま空回りしてしまいます。

というのも、コンサートが成立しない!


ひとつには、元タイガースのジュリーと元テンプターズのショーケンがいるので、双方のファン同士が会場で激しくいがみ合ってしまいました。

ジュリーが歌えば「ショーケン! ショーケン!」とタンバリンが激しく鳴り、ショーケンが歌えば「ジュリー! ジュリー!」と観客が騒いだのだそうです。


また、学生運動が下火になりつつあったとはいえ、一部が過激化していたこの時期、当時最大手の芸能プロダクションだった渡辺プロにより商業的なグループとしてつくられたPYGは、批判の的になりました。

1971年3月に京都大学西部講堂で開催されたデビューライブは、観客の罵声で会場は大混乱。

同年4月に日比谷野外音楽堂で開催された 日比谷ロック・フェスティバルでも、「帰れ」コールが響き渡り、ステージに物が投げられるなどの騒動になりました。


こうした中、ショーケンは役者としての活動、ジュリーもソロ歌手としての活動を本格化させていき、伝説のスーパーバンド「PYG」は自然消滅していきます。(※2)

★↓↓↓ジュリーと元妻・伊藤エミさんのド派手結婚式についてはコチラ

沢田研二と元妻・伊藤エミの比叡山ド派手結婚式がヤバすぎる!なれそめはザ・ピーナッツへの楽曲提供
ジュリーこと沢田研二さんは、言わずと知れた日本芸能界のスーパースター。このブログ記事では、ジュリーと元妻・伊藤エミさん(ザ・ピーナッツ)の比叡山での結婚披露フリーコンサートの様子、2人のなれそめ、離婚、伊藤エミさんの最期についてまとめます。
  • ※1:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 自由・反抗・挑戦 5」週刊文春 2021年10月21日号
  • ※2:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 自由・反抗・挑戦 4」週刊文春 2021年10月14日号


沢田研二のソロ活動~70~80年代の約10年間にわたり大ヒット曲を連発

ジュリーは、グループサウンズの先輩だった「ザ・ワイルドワンズ」加瀬邦彦氏のプロデュースのもと、ソロ歌手としてのスタートを切ります。

PYGの他のメンバーは「井上堯之バンド」としてジュリーのバックバンドを務めました。(※)

※:井上堯之バンドは、ショーケンが出演したテレビドラマ「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」の音楽も担当し、ヒットメーカーとなった。


ヒット曲を連発し「勝手にしやがれ」でレコード大賞を受賞

ジュリーは1971年11月、シングル「君をのせて」でソロデビューしました。

沢田研二 君をのせて
(画像出典)amazon.co.jp

ソロになって初めてオリコン1位を獲得したのが、1973年4月発売の「危険なふたり」

沢田研二 危険なふたり
(画像出典)amazon.co.jp

売上枚数は65万枚にのぼり、第4回日本歌謡大賞を受賞します。

翌1974年には「追憶」が58万枚を売り上げ、再びオリコン1位を獲得しました。

沢田研二 追憶
(画像出典)amazon.co.jp

1975年8月発売の「時の過ぎゆくままに」は5週連続オリコン1位、累計売上92万枚で、ジュリー最大のヒット曲に。

沢田研二 時の過ぎゆくままに
(画像出典)amazon.co.jp

1977年5月発売された「勝手にしやがれ」も5週連続オリコン1位を獲得し、第19回日本レコード大賞第8回日本歌謡大賞を受賞しました。

沢田研二 勝手にしやがれ
(画像出典)amazon.co.jp

海外進出し、フランスでは日本人初のゴールデンディスク賞!

1975年1月に、ジュリーは海外進出も果たしています。

  • イギリスで「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」を発売
  • フランスで「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」を発売


しかもジュリーは、ただ海外でレコードを発売しただけではないのです。

フランスではベスト10入りを果たし、20万枚を売り上げフランスのゴールデンディスク賞を日本人で初めて受賞しています。

沢田研二 ジュリー フランスで発売したレコード
(画像出典)ニッポン放送 NEWS ONLINE

当時のフランスの少女雑誌『quinze ans(15歳)』では日本特集が掲載され、「トーキョーのヒットパレードで有名な沢田研二が、この冬ヨーロッパを魅了」という記事が登場しました!

沢田研二 ジュリー フランスの少女雑誌
(画像出典)exciteニュース


奇抜な衣装とメイクで話題をさらった「ビジュアル期」

ジュリーのセンセーショナルな衣装は、1973年「危険なふたり」の頃から、デザイナーの早川タケジ氏が手掛けていました。

早川タケジ
早川タケジ氏(画像出典)AERA dot.

レコード大賞受賞以降は、ジュリーと早川氏の挑発的なコラボレーションが加速していきます。


★↓1977年「さよならをいう気もない」では金色のキャミソール

沢田研二 ジュリー さよならをいう気もない 1977年
(画像出典)https://twitter.com/stromboligrey/status/1150746772647497729

★↓1978年「サムライ」ではシースルーの上に軍服

沢田研二 ジュリー サムライ 1978年
(画像出典)https://twitter.com/chieeast/status/794887022489968640

★↓ 1978年「LOVE (抱きしめたい)」ではスタジオに雨を降らせ

沢田研二 ジュリー LOVE (抱きしめたい) 1978年
(画像出典)ガールズちゃんねる

★↓ 1979年「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口から霧のように吹く演出

沢田研二 ジュリー カサブランカダンディ 1979年
(画像出典)https://otokake.com/matome/A0LOpe?page=2

★↓ 1979年「OH!ギャル」ではマニキュアをしマレーネ・ディートリヒを模したメイク

沢田研二 ジュリー OH!ギャル 1979年
(画像出典)週刊女性PRIME

★↓ 1980年「TOKIO」では、電飾スーツ+パラシュート

沢田研二 ジュリー TOKIO 1980年
(画像出典)週刊女性PRIME

★↓ 1980年「恋のバッド・チューニング」ではカラーコンタクト

沢田研二 ジュリー 恋のバッドチューニング 1980年
(画像出典)ガールズちゃんねる

★↓ 1981年「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」パープル系の濃いメイク

沢田研二 ジュリー ストリッパー
(画像出典)yahoo.co.jp

あ~、私もこの時期はリアルタイムで見ていた記憶があります。

クラスメートが「TO~KI~O♪」って振り付けしながら歌ってたなあ~

ジュリーは毎週ベストテンに出ていて、パラシュートやカラコンで歌っていたのを覚えていますよ・・・(遠い目)


しかし、こうした凝ったビジュアル方針は一部関係者の反発を招き、バックバンドである井上堯之バンドが1980年1月に解散しました。

その後、1985年に加瀬邦彦氏がプロデューサーを離れ、ジュリーは渡辺プロダクションから独立しました。


ジュリーは、加瀬さんがプロデュースした13年間を振り返り、

ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦さんが、沢田研二個人のプロデューサーとして衣装やすべてを考えてくれるようになったんです。

化粧をしたりピアスを付けたりしたことには賛否両論ありましたが、僕はもともと男らしくない人間ですし、男だって女々しくていいじゃないかという考えです。

逆に僕の中では、化粧をする、と決断することが男らしいと思っていました。

2018年6月28日「法テラス」インタビュー Vol.2 沢田研二さん

と語っています。

タイガース時代のジュリーの評判

最後に、ジュリーの若い頃(特にザ・タイガース時代)について、当時のマネージャー各界の超大物有名人のコメントを集めてみました。


まず最初に、ザ・タイガース時代のマネージャーだった森弘明氏のコメントです。

ウエスタンカーニバルでもタイガースが登場すると地響きがして日劇全体が揺れるんですよ。人気は桁違いで、他のGSとは別物でした。飛行場でも、ファンが殺到するのでロビーは通れなくて、タラップの下に迎えの車を着けなきゃいけなかった。当時の地方の飛行場は今のように整備されていなくて、それでも塀を乗り越えて雲霞(うんか)の如くファンが押し寄せてくる。メンバーをガードしている僕はポケットを引きちぎられ、何着もスーツをボロボロにされました。

島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 熱狂のザ・タイガース 2」週刊文春 2021年7月8日号

次に、有名司会者・浜村淳氏のコメント。

私が鮮明に記憶しているのは、ファニーズの中に沢田研二という美少年がおりまして、彼がタンバリンを激しく身体に打ちつけながら歌ったんです。するとそのうちタンバリンの皮が破れましてね、ガーッと四方に飛んでいった。会場のお客さんは大興奮ですよ。随分盛り上がりました。だから渡辺プロダクションが目をつけて東京に引っぱっていった。そういうことだと思います。

島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 熱狂のザ・タイガース 4」週刊文春 2021年7月22日号

当時のファンたちの熱狂ぶりがわかりますね!


次はなんと、元日本赤軍の重信房子氏

グループサウンズでは、やっぱりジュリーのいるザ・タイガースを贔屓にしていました。活動をやる前の時代ですが、母も『ジュリーよ!』と沢田研二がテレビに出ると私を呼んでいました。母も好きだったのかも。彼はソロになってからも年々よくなっています。政治的発言を聞いても、まっとうな立場です。

島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 熱狂のザ・タイガース 3」週刊文春 2021年7月15日号

学生闘士だった重信房子氏もジュリーファンだったとは驚きです。


そして最後に、ザ・タイガースより数年遅れてキャロルとしてデビューした、矢沢永吉氏の1973年(昭和48年)のコメントです。

あれだけの体制を動かしたのは何かと考える場合、非常に興味はありますね(中略)うちのマネージャーにも言ってるんですけど、一度逢って話をしたいですね。とにかく《タイガース》の沢田研二は最高ですよ。

島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 自由・反抗・挑戦 3」週刊文春 2021年10月7日号

ジュリーの存在感は、多くのカリスマたちも特別視するほど。

まさしく時代のスーパースターだったといえますね!


まとめ

この記事では、ジュリーの若い頃の人気を物語るエピソードを紹介し、幼少時からの生い立ち、独立前までの音楽活動の歩み、奇抜なステージ衣装の画像をまとめました。

ジュリーの若い頃・・・色気あふれるイケメンぶり&とてつもない人気に驚きますね!

当時ファンの熱狂もすごい!!

そんなジュリーが少年時代はプロ野球選手をめざし、一心不乱に練習していたというのは意外です。

そんな一生懸命さが、後のプロデューサーやデザイナーとのあくなき共同作業を生み出し、スーパースター「ジュリー」が音楽とビジュアルで一世風靡する世界を創り上げたのかもしれません。

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