【このブログ記事は沢田研二の20~30代のまとめです】
ジュリーこと沢田研二さんは、1960年代に「ザ・タイガース」のボーカルとして活躍。
解散後はソロ歌手として出す曲が次々とヒットし、本当にものすごい人気でした。
最近では、俳優の佐藤健(さとう・たける)さんが、1980年代のジュリーに似ているという声も!
この記事では、
- ジュリーがソロデビューした後の「イケメン人気絶頂期」
- 早川タケジがスタイリストを務めた「ビジュアル期」
- 独立した理由と現在テレビに出ない理由
- 沢田研二&佐藤健そっくり説
について紹介します。
★ジュリーの幼少期からの生い立ちについては↓↓↓
沢田研二(さわだ・けんじ) プロフィール
- 生年月日:1948年(昭和23年)6月25日 ※2024年で76歳
- 本名:澤田研二(さわだ・けんじ)
- 愛称:ジュリー
- 出身地:京都府京都市 ※出生地は母の実家がある鳥取県鳥取市
- 身長:171cm
- 血液型:A型
- 学歴:京都市立第三錦林小学校卒業→京都市立岡崎中学校卒業→京都府立鴨沂高等学校中退
ジュリーは、グループサウンズの先輩だった「ザ・ワイルドワンズ」の加瀬邦彦氏のプロデュースのもと、ソロ歌手としてのスタートを切ります。
「勝手にしやがれ」でレコード大賞を受賞
ジュリーは1971年11月、23歳のとき、シングル「君をのせて」でソロデビューしました。
ソロになって初めてオリコン1位を獲得したのが、1973年4月発売の「危険なふたり」。
売上枚数は65万枚にのぼり、第4回日本歌謡大賞を受賞します。
翌1974年には「追憶」が58万枚を売り上げ、再びオリコン1位を獲得しました。
そしてジュリーは、1970年代後半に人気絶頂期を迎えます。
1975年8月発売の「時の過ぎゆくままに」は5週連続オリコン1位、累計売上92万枚で、ジュリー最大のヒット曲に。
1977年5月発売された「勝手にしやがれ」も5週連続オリコン1位を獲得し、この年に29歳で第19回日本レコード大賞、第8回日本歌謡大賞を受賞しています。
1978年(昭和53年)1月19日にスタートしたTBS「ザ・ベストテン」で連続1位を獲り、「8時だヨ全員集合」「ドリフ大爆笑」では志村けんさんとコントをやり・・・
テレビでジュリーを見ない週はなかったほどでした。
★ジュリーそっくりのイケメン!父・澤田松雄さんについては↓↓↓
海外進出し、フランスでは日本人初のゴールデンディスク賞!
ジュリーは1975年1月、26歳のときに海外進出も果たしています。
- イギリスで「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」を発売
- フランスで「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」を発売
しかもジュリーは、ただ海外でレコードを発売しただけではないのです。
フランスではベスト10入りを果たし、20万枚を売り上げ、フランスのゴールデンディスク賞を日本人で初めて受賞しています。
当時のフランスの少女雑誌『quinze ans(15歳)』では日本特集が掲載され、「トーキョーのヒットパレードで有名な沢田研二が、この冬ヨーロッパを魅了」という記事が登場しました!
奇抜な衣装の「ビジュアル期」~早川タケジのアートディレクション
ジュリーのセンセーショナルな衣装は、1973年「危険なふたり」の頃から、デザイナーの早川タケジ氏が手掛けていました。
レコード大賞受賞以降は、ジュリーと早川氏の挑発的なコラボレーションが加速していきます。
★↓1977年「さよならをいう気もない」では金色のキャミソール(29歳)
★↓1978年「サムライ」ではシースルーの上に軍服(30歳)
★↓ 1978年「LOVE (抱きしめたい)」ではスタジオに雨を降らせ(30歳)
★↓ 1979年「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口から霧のように吹く演出(31歳)
★↓ 1979年「OH!ギャル」ではマニキュアをしマレーネ・ディートリヒを模したメイク(31歳)
★↓ 1980年「TOKIO」では総額250万円とも言われる電飾スーツ+パラシュート(32歳)
★↓ 1980年「恋のバッド・チューニング」ではカラーコンタクト(32歳)
★↓ 1981年「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」はパープル系の濃いメイク(33歳)
あ~、私もこの時期はリアルタイムで見ていた記憶があります。
クラスメートが「TO~KI~O♪」って振り付けしながら歌ってたなあ~
ジュリーは毎週ベストテンに出ていて、パラシュートやカラコンで歌っていたのを覚えていますよ・・・(遠い目)
こうしたビジュアル資料を集めた写真集「JULIE by TAKEJI HAYAKAWA-早川タケジによる沢田研二」が、2022年7月25日に発売されました♪
ところが、こうした凝ったビジュアル方針は一部関係者の反発を招き、バックバンドである井上堯之バンドが1980年1月に解散しました。
ソロ歌手として約10年にわたりトップを走り続けてきたジュリーも、1980年代半ばには人気に陰りが見えてきます。
1985年(昭和60年)37歳のとき、加瀬邦彦氏がプロデューサーを離れました。
ジュリーは、加瀬さんがプロデュースした13年間を振り返り、
ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦さんが、沢田研二個人のプロデューサーとして衣装やすべてを考えてくれるようになったんです。
化粧をしたりピアスを付けたりしたことには賛否両論ありましたが、僕はもともと男らしくない人間ですし、男だって女々しくていいじゃないかという考えです。
逆に僕の中では、化粧をする、と決断することが男らしいと思っていました。
と語っています。
★ジュリーは結婚式もエンタメ!伝説の比叡山フリーコンサートは↓↓↓
ジュリーは1985年(昭和60年)1月、37歳のときに半年間の長期休養を取得。
休養宣言も何もなく突然テレビにもステージにも出なくなったジュリー。当時、女優の田中裕子さんとの不倫も噂されていたので、マスコミはさまざまな憶測を報道しました。
ジュリーは休養後に事務所を独立し、雑誌のインタビューで理由を語っています。
ジュリーが休養した理由は、何かを変えなくてはヤバイという危機感を感じたからだそうです。
それは危機感ですヨネ。ヤバイっていう感じですヨ。(中略)
このままじゃヤバイ、っていう・・・。(中略)
何かを変えないといけないっていう感じ。それはやり方なのか、考え方自体を変えるのか。
僕自身、世間で言う”一度言ったら撤回しない”とか”武士に二言は無い”とか、そういうの嫌いだから、方法論や姿勢が、そのときの状況や理由に応じて変わってもいいと思ってる。勿論、他人に迷惑をかけない、というのを前提にネ。
だから、この辺で考え方とか、やり方をガラッと変えてみることも、1つの方法でいいかナって、思ったんですヨ。
そして、気分も人も一新して1段階進みたいという気持ちから、「沢田オフィスCO-COLO」として5~6人のスタッフと独立しました。
もともと去年の秋頃から、ちょっとこのままじゃなくて、1段階進みたい、っていう気持ちがあってネ。で、気分も人も一新しようっていう感じでネ。
かといって僕はあんまり交際範囲の広い人間じゃないから。今まで何らかの形で付き合いがあった人なんかに相談してて、その中で段々メンバーが集まって来た、という感じ。
ザ・タイガースのデビュー以来所属していた渡辺プロの、子会社という形の独立でした。「巣立つというか、ノレン分けみたいなもの」と語るジュリー。
しかし渡辺プロが大手事務所なので、”忖度”して多くのメディアがジュリーの起用を控えたため、ジュリーの露出が激減したとも言われています。
独立後のジュリーは、テレビへの露出が減りました。
1991年11月にNHK・BSの番組で次のように語っています。
テレビに必要とされなくなってきた。いま昔のしっぺ返しがきているんです。昔の反動です。出続けていることが必要だった。
昔の歌を歌ってくれたら、いまの曲もどうぞ、というのなら出たいと思わない。ぼくを見たいと思う人は、それを大変だと思わないで来てくれる人が見に来てくれればいい。テレビで見ようっていうのは、ぼくが望んでいるファンではない。いろんな事情でテレビしか見れない人には申し訳ないと思うけれど(中略)
テレビは一度に多くの人が見れる可能性がある。見たくない人にも見せることになる。そうなると、アラを探すでしょ?太ったとか、ふけたとか。大勢が見ると、いろんなリアクションを受け止めなきゃいけない。
だから長く続けたいから、そういう方法をとろうと模索するわけですよ。
さらに1992年(平成4年)からは、「懐メロ歌手ではない現役の歌手だから」という理由で、音楽番組での過去映像の放映を許可しなくなりました。
これは、ヒット曲の版権を渡辺プロが持っており、歌う場合には使用料を払わなければならないという事情もあったようです。
2001年(平成13年)に過去映像の放映を解禁し、テレビにも復帰しましたが、「テレビはもう自分の居場所ではなかった」と、翌2002年(平成14年)から再度テレビ出演を控えるように。
ジュリーは2001年1月のインタビューで、テレビに出ない理由を次のように答えています。
一つには自分に鮮度がなくなったこと。宿命ですよね。もう一つは、出たい歌番組がなくなったこと。どの番組にもお笑いの人がいて、歌うというよりしゃべりに行く感じ。「本音はどやねん」「ちゃいまんねん」とか言いながら、急にまじめな顔して歌う。そんなんのためにテレビ出演という椅子取りゲームに加わるのはやめようと。(中略)
以前はプロジェクトの歯車の一つでした。たとえば、阿久悠さんが強烈な詞を書き、大野克夫さんが負けじと派手な曲をつける。僕が『そうきたか!』と衣装や演出を考える。今は自分の好み、音楽的志向で当てたいんです。
ジュリーは現在でも、メディアにほとんど出演せずコンサート中心の活動をしていますが、2020年と2021年に全盛期のテレビ出演映像が発売されました!
↑NHK出演時の映像を収録した5枚組DVDです。
★沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION DVD
↑ザ・ベストテン出演映像を含む、TBS出演映像を収録した7枚組DVDです。
かつて一世を風靡したスーパースターのジュリーですが、最近では、俳優の佐藤健(さとう・たける)さんに似ていると、ネット上で噂になっています。
何でも「沢田研二 若い頃」で画像検索すると、佐藤健さんが出てくるとか!
さっそく佐藤健さんの画像を調べてみると・・・
なるほど~!口元が似ているかも・・・
次は、佐藤さんの代表作「るろうに剣心」の画像。
たしかに、額を隠した長めのヘアスタイルだと、似ていますね!
ただし短めのヘアスタイルだと、ジュリーには似ていなくて・・・
むしろ宮迫さんに似てますよね(笑)
ジュリーの若い頃について、twitterで意見を集めてみました!
さっき若い頃の沢田研二をテレビで見てかっこよすぎて調べまくった ジュリーってあだ名も素敵じゃない???????
沢田研二の若い頃 そこら辺の西洋人俳優を蹴散らす美しさ
母は沢田研二さんが大好きで、若い頃は『おっかけ』もしていたそうな。
YouTubeも知らなければ、スマホもろくに操作できない母だったが、「沢田研二さんの動画も観れるんやで」の一言で操作を覚えた。
若い頃のビジュアル色気えげつないし70歳越えの現在でも変わらない声量にこれまたびっくり。昭和の歌手は半端ない・・・。
沢田研二の若い頃の動画観たらかっこよすぎて腰が抜けた。そりゃ爺さんになってもみんな付いてくわ。
若い頃にも惚れちゃうけど、7年前初めてライブで見た66歳のジュリーに惚れちゃって以来ずっと沼の中です・・・♡
ザ・タイガースの沢田研二さん
その当時の人気や若い頃を知っている人に話を聞くと、今のアイドルやアーティストとは段違いでこんな日本人アーティストはもう二度と出ないだろうって
ジュリー(沢田研二)
若い頃かっこよかったなー!リアルタイムだったら追っかけしてそう
ジュリーの若い頃はかっこよすぎるという声が多数。やっぱり稀代のスーパースターなんですね!
この記事では、
- ジュリーがソロデビューした後の「人気絶頂期」
- 早川タケジがスタイリストを務めた「ビジュアル期」
- 独立した理由と現在テレビに出ない理由
- 佐藤健そっくり説
について紹介しました。
沢田研二さんの1970年代から1980年代までの人気は凄まじいですね!
強烈な歌詞、派手な楽曲、破天荒な衣装や演出・・・
昭和のテレビ黄金期に、一流アーティストたちがコラボを組んで、テレビというメディアに最大限挑戦した軌跡なのだと思います。
その後のジュリーは、コンサート中心の音楽活動にシフトしていきますが、往時の輝きも色あせることはないでしょう!