歌手の美輪明宏さん、文豪・三島由紀夫が「天上界の美」と呼んだほどの、若い頃の美しさがすごすぎる!
このブログ記事では、美輪明宏さんの若い頃の画像・歌手になった理由・有名になった理由についてまとめます。
★美輪明宏(みわ・あきひろ) プロフィール
- 生年月日:1935年(昭和10年)5月15日 ※2024年で89歳
- 出身地:長崎県長崎市
- 本名:丸山明宏(まるやま・あきひろ)
- 身長:161cm
- 血液型:A型
- 学歴:佐古国民学校(現・長崎市立佐古小学校)→海星中学校→国立音楽大学付属高等学校 中退
美輪明宏さんの若い頃の画像を集めてみました!
★↓1937年(昭和12年) 2歳のとき
左からお父さん、お兄さん、美輪さん、お母さんです。太平洋戦争が始まる前、お父さんが長崎市の繁華街でカフェや料亭を経営していた時代で、裕福だった頃の写真です。
★↓1950年(昭和25年)15歳のとき
端麗すぎる顔立ちに、中学生とは思えない憂いを秘めた表情。既に長崎で、シャンソンを独学によって歌い始めていた頃です。
★美輪明宏さんの幼少期と生い立ちについては…↓↓↓
★↓1954年(昭和29年)19歳のとき
上京後、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で専属歌手として歌っている様子です。常連の文化人たちにかわいがられていました。
★↓1957年(昭和32年)22歳のとき
フランスのシャンソンを日本語カバーした曲「メケメケ」を歌っている様子です。レコードは大ヒットし美輪さんは一世を風靡しました。
★↓1963年(昭和38年)28歳のとき
男性的なたたずまいのこの写真は、NHK「夢であいましょう」1968年12月オンエア分。永六輔作詞・中村八大作曲「あいつのためのスキャットによる音頭」という曲を歌っている美輪さんです。
周囲で踊っている中には、レギュラー出演していた黒柳徹子さんもいらっしゃったとか!
★↓1968年(昭和43年)33歳のとき
1968年に上演された舞台「黒蜥蜴(くろとかげ)」。写真左は明智小五郎役を演じた天地茂さん。中央は脚本を書いた三島由紀夫さんです。
★↓1968年(昭和43年)33歳のとき
映画版「黒蜥蜴」の美しすぎる美輪さんです。これ映画館で見ましたけど、ホントすごかった!(人形役の三島由紀夫も)
★海外ファンも多い伝説の映画「黒蜥蜴」については↓↓↓
★↓1968年(昭和43年)33歳のとき
「黒蜥蜴」と同じ年のオフステージ写真です。
★↓1968年(昭和43年)33歳のとき
これも同じ年、歌舞伎座の前でスーツ姿の写真です。
★↓1969年(昭和44年)34歳のとき
1969年公開の映画「黒薔薇の館(くろばらのやかた)」です。26歳の田村正和さんも出演していました!
★↓1969年(昭和44年)34歳のとき
「黒薔薇の館」と同じ年のオフステージ写真です。
★↓1971年(昭和46年)2月 35歳のとき
美しさに円熟味が加わっていますね!
★↓2020年(令和2年)85歳のとき
こちら50年後の写真です。御年85歳!
美輪明宏さんが黄色をまとっているのは、ピカチュウの化身だから・・・というのは冗談で(笑)、黄色は「帝王の色」だからだそうです。
美輪明宏さんが歌手になった理由は、実家のすぐ近くに「映画館 兼 劇場」と「楽器屋 兼 レコード店」があり、幼少期からたくさんの映画・芝居・音楽に触れて育ったから。
そして決定的な出来事は、小学校5年生のとき、映画「僕の父さん」で童謡歌手・加賀美一郎さんの美しい歌声を聞いたことです。
その影響を受けて小学校で歌っていたところ、先生が感心してプロの声楽家を紹介したことが、美輪さんの歌手人生のスタートでした。
実家の2軒隣が映画館 兼 劇場、向かいは楽器屋 兼 レコード店
美輪明宏さんの実家は、長崎市の歓楽街・丸山町の隣、本石灰町(もとしっくいまち)にありました。
2軒隣は「南座」という映画館 兼 劇場で、支配人夫妻に子供がいなかったので、美輪さんは実の子のように大事にされて出入り自由になり、芝居の役者衆にも可愛がられて、毎日をそこで過ごすようになりました。(※1)
うちの隣が映画も上映する劇場でね。将来、「黒蜥蜴(くろとかげ)」のような芝居をやるための下地を学べということだったのでしょうね。照明から、美術の大道具、小道具、衣装、メーキャップの仕方まで、舞台裏の仕事が全て頭に入りました。
また家の向かいには、楽器屋 兼 レコード店がありました。
クラシック、ジャズ、シャンソン、タンゴ、流行歌、童謡。ありとあらゆる音楽のレコードが聴けました。戦時中、軍歌以外は全部禁止になった悲しみも、そこから解放された時の喜びも知っています。私のレパートリーが広いのはそのせいです。
幼少期の美輪さんは、朝から晩まで映画や芝居の名作を見て、さまざまな音楽を聞きながら過ごしていました。こうした環境が、美輪さんの芸術的感性の根幹をつくったのは間違いないでしょう。(※2)
小学校1年生の学芸会で、人前で歌う喜びを知る
美輪明宏さんは、佐古国民学校(現在の長崎市立佐古小学校)1年生のとき、学芸会で「小さなお医者さん」という演目を演じました。このときの担任は小幡百合子先生で、この先生は後年、大きな役割を果たします。
学芸会は拍手喝采でとても好評だったので、小幡先生は美輪さんを、海軍航空隊の慰問に連れて行きます。
美輪さんが歌を披露すると、慰問先の兵隊さんたちもとても喜んでくれたので、美輪さんは人前で歌やお芝居を見せることが大好きになりました。
映画のボーイソプラノと小学校の恩師に導かれて
美輪明宏さんは、戦後の1946年(昭和21年)に、映画「僕の父さん」を見ました。この映画は、当時の人気芸人・古川ロッパが主演の作品です。
古川ロッパの息子役として出演していたのが、童謡歌手・加賀美一郎さん。
美輪さんは加賀美一郎さんのボーイソプラノの美しさにものすごい衝撃を受け、何度も映画館に通って、劇中歌を全部覚えたそうです。
美輪さんが小学校の廊下で歌っていたら、小幡百合子先生(1年生のときに海軍の慰問に連れて行ってくれた先生)に見つかり、「後で職員室にいらっしゃい」と言われました。
きっと怒られるだろうと職員室に行くと、他の先生の前で歌わされて、小幡先生が周りの先生に「この子、才能あると思いませんか?」とおっしゃったそうです。
さらにその日のうちに、先生が美輪さんのお父さんにバリトン歌手・ 一ノ瀬克己氏を紹介し、 美輪さんは一ノ瀬克己音楽研究所に週2回、声楽とピアノのレッスンに通うことになりました。(※)
小学校で出会った小幡百合子先生が、美輪さんの才能を発見し、開花させたのですね!
その頃の美輪さんは、エンリコ・カルーソーやベニアミーノ・ジーリ(どちらも20世紀前半に活躍したイタリアの大御所オペラ歌手)に憧れ、クラシックのコンサート歌手を目指していました。
フランス語が必修授業の中学時代、シャンソンと出会う
美輪明宏さんは、長崎市内の私立学校・海星中学校に進学しました。
海星中学校の創立者はフランス人宣教師で、学校では英語だけでなく、フランス語も必修科目だったそうです。おかげで中学校の3年間、フランス語を基礎から勉強することができました。
そしてある日、電気屋さんの店頭でシャンソンと出会います。
当時の美輪さんの家の前には電気屋さんがあって、店頭を覗くとフランス語の歌詞が書かれた楽譜があったそうです。お店の人に頼んでレコードも聞かせてもらい、その日から独学でシャンソンを歌い始めたとか。
後に東京でシャンソン歌手としてブレイクする美輪さん。人生の喜怒哀楽を表現するシャンソンは、歌詞がとても大事です。フランス語を学べる中学校に通っていたことで、シャンソンの基礎を身につけることができたのですね!
その後美輪さんは、本格的に音楽を学ぶため、15歳で上京し、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)へ入学しました。(※)
※:2019年3月21日 サライ.jp「美輪明宏さん『人には必ず役目がある。舞台を通して皆さんに活力を吸収していただくのが私の役目です』」
美輪明宏さんが有名になったのは、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」の専属歌手のとき。
中性的なルックスが話題になり、発売したレコード「メケ・メケ」がヒット。その後低迷期を経て、「ヨイトマケの唄」がヒットしました。
以下、くわしい経緯をまとめます。
高校中退し、新宿でホームレスに
東京の有名な音楽高校に進学した美輪明宏さんですが、高校1年のときに長崎の実家が破産してしまいます。
美輪明宏さんは高校を中退し、家賃も払えなくなってしまったので、アパートを追い出されてしまったそうです。
当時はまだ戦後の貧しい時期で、新宿駅の構内や地下道には、家のない人たちがたくさん寝泊りしていました。美輪さんもその人々の中でホームレス生活をしていたとか。
すると偶然、音楽高校時代の同級生に出会い「ジャズ歌えるか?」と尋ねられ、美輪さんは進駐軍のキャンプを回ってジャズを歌い、お金を稼ぐようになりました。(※)
シャンソン喫茶「銀巴里」専属歌手に
10代中頃の美輪明宏さんは、進駐軍のキャンプでジャズを歌う傍ら、喫茶店でもアルバイトをしていました。
ある日顔見知りになった学生に誘われ、宝塚歌劇団出身の歌手・橘薫さんのシャンソンコンサートで、前座を務めたそうです。
すると橘さんが、このままではもったいないと、美輪さんを銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」に紹介してくれました。
銀巴里は、コーヒー1杯で生のシャンソンが楽しめるので、とても人気がありました。
美輪さんは銀巴里の専属歌手になり、常連の文化人たちに気に入られるように。
江戸川乱歩、三島由紀夫、川端康成、遠藤周作、吉行淳之介、岡本太郎・・・名だたる昭和の大文豪&芸術家たちです!!
★大作家・三島由紀夫と美輪明宏の親密な関係については…↓↓↓
また、作詞家のなかにし礼さんが、大学(立教大学文学部仏文学科)へ通う学費を稼ぐために、銀巴里に通ってシャンソンの訳詞をしていました。なかにし礼さんは、6年間で1000曲もの歌詞を訳したそうです!
銀巴里はパリのサロンのように、一流の文化人・芸術家たちが集い議論をかわす、当時の文化の発信基地になっていました。
美輪明宏さんは、三島由紀夫に「天上界の美」と呼ばれたその美しい顔立ち、そして歌唱力に加え、「男でも女でもない」というファッションで感性豊かな文豪たちを魅了。文化人たちの創作意欲を刺激し、アイドル的存在になっていたといえます。(※)
★三島由紀夫がボディビルを始めたのは美輪明宏のせいだった↓↓↓
「メケメケ」の大ヒット
シャンソン喫茶「銀巴里」の専属歌手だった美輪明宏さんは、マスコミに「神武以来の美少年」と騒がれました。
神武以来(じんむこのかた)とは、「初代天皇といわれる神武天皇の時代以来」ということですから、「歴史が始まって以来の美少年」という意味です。
そんななか美輪さんは、1957年(昭和32年)22歳のときに、フランスのシャンソン「メケ・メケ(Méqué méqué)」を日本語でカバーし、レコードを発売しました。
この歌が大ヒットし、美輪さんは一躍有名人になったのです。(当時は本名の丸山明宏名義)
同じ1957年には、増村保造監督の映画「暖流」(大映)に、歌手として出演もしました。
時代を先取りしすぎた不遇時代
美輪明宏さんは、若い頃から80代の現在まで、ブレることないポリシーを貫き発信しています。
今でこそLGBT(性的少数者)の権利に目が向けられるようになってきましたが、美輪さんが芸能活動を始めた昭和30年代は差別が激しい時期でした。
美輪さんは「メケメケ」のヒット後、週刊誌で、自らが同性愛者であることをカミングアウトしました。
また美輪さんは、海外には労働歌や反戦歌などさまざまなジャンルの歌があるのに、日本には歌謡曲しかないことを不満に思い、自分で労働や反戦をテーマにした曲を作詞・作曲し始めました。
その曲とは、炭鉱町の子どもたちを歌った「ボタ山の星」や、反戦歌「ふるさとの空の下に」など。歌詞に合わせてシャンソンのヒラヒラした衣装も封印し、地味な格好で歌い始めたところ、とたんにマスコミが見向きもしなくなったそうです。
歌いに行ったキャバレーでは、「酒がまずくなる!」とおつまみが投げつけられたり、「そんな歌は共産党の前で歌え」と罵倒されたり・・・(※1)
同時期に美輪さんは、原爆の後遺症と思われる貧血や吐血などの症状にも悩まされることになり、不遇の時代を送ります。(※2)
- ※1:2013年1月10日 日豪プレス「新年インタビュー、美輪明宏さん」
- ※2:2019年3月21日 サライ.jp「美輪明宏さん『人には必ず役目がある。舞台を通して皆さんに活力を吸収していただくのが私の役目です』」
「ヨイトマケの歌」で再ブレイク
売れっ子歌手から一転、仕事が来なくなり逆境の時期を過ごしていた美輪明宏さん。
その頃、幼なじみの思い出をテーマにひとつの曲を書きました。
それが「ヨイトマケの唄」です。
ヨイトマケとは建築作業員のこと。建築作業現場で、重い物を滑車で上げ下げするときに言った「よいとまーけ!」という掛け声が元になっています。
美輪さんの幼なじみのお母さんは建築作業員をしていて、そのせいでいじめられ、差別されていました。
しかしそのお母さんは我が子に
けんかが強いこと、勉強ができること、お金を持っていることが偉いんじゃない。お天道(てんと)さまの前で胸張って、正直で真っ当に働いて、陰ひなたなく誰にも指を差されず、そういう人間が一番偉い。だからお前は一番偉いんだ
と言ったそうです。
そのエピソードをもとにした「ヨイトマケの唄」、1965年(昭和40年)30歳のときに発売され、テレビのワイドショー(木島則夫モーニングショー)で歌うと大反響がありました。
テレビ局の電話は鳴りやまず、差別を受けている人たちや貧困のなかで働く人たちから、「自分たちを励ます歌だ」という手紙が2万通も届いたそうです。
美輪明宏さんは再び、ヒット歌手として多忙な日々に。
しかし、曲中の「ヨイトマケ」「土方」という言葉が差別語であるということで、民放連に加盟する放送局が自主規制してしまいました。
民放連に加入していないNHKが、昭和40年の紅白歌合戦に出場の打診をしましたが、当時は1曲2分半という制約があり、ヨイトマケの唄は6分以上あるので美輪さん側が断ったそうです。(※)
それから47年が経った2012年(平成24年)、美輪さんは77歳で紅白に初出場。
黒髪に黒い衣装で、情感たっぷりに歌い上げ、全国を感動の渦に巻き込んだのでした。
※:2019年3月21日 サライ.jp「美輪明宏さん『人には必ず役目がある。舞台を通して皆さんに活力を吸収していただくのが私の役目です』」
美輪明宏さんの若い頃について、世間の声をtwitterから集めてみました!
美輪明宏さん、若い頃の写真が美形すぎてビビった。かっこいいと表現するべきか、綺麗と言うべきか、兎に角美しすぎる
美輪明宏はきれいだ。歌もうまい。だが小柄。美輪がエッセイで書いていたが、自分は背が低いことが欠点でタキシードを着ると見劣りすので女装をして、唯一無二の洋服の女形になったと。
若い頃の美輪明宏、ギリシャとかに生まれてたら成人するまえにどっかの神様に拐われてたんじゃないのってくらいきれい
若い頃の美輪明宏ったらもののけレベルの麗しさ。
美輪明宏の若い頃はもう俗世の面倒ごととかどうでもよくなるくらい説得力の高すぎる美である。
若い頃の美輪明宏の美しさを超える男はもうこの世には二度と生まれてこないのよ
美輪明宏の若い頃のお写真麗しすぎてときめきを通り越して頭下げた
おすぎとピーコは美輪明宏に「きれいなオカマだってきれいなりに大変なのよ」と言われた
美輪明宏さんの若い頃の美しさ、絶賛する声であふれています!
この記事では、美輪明宏さんの若い頃の画像、歌手になった理由、有名になった理由についてまとめました。
美輪さんが、自分を曲げずに不遇の時期を過ごされていたということに驚きました!
戦争に原爆、そして貧困と差別を経験し、それでも自分の考えを貫いて生きてこられた姿は、本当の意味で美しく、かっこいいと思います。
美輪さんにはこれからもお元気で、人間・人生の本質をついた言葉と芸術を、私たちに教え続けてほしいです!