【このブログ記事は沢田研二の幼少期~20代初頭のまとめです】
ジュリーこと沢田研二さんは1960~80年代一世風靡したスーパースター。
京都・岡崎中学時代から有名なイケメンで、ザ・タイガース時代は、ステージからファンを指さすだけで何人もが失神していったという伝説も!
この記事では、
- ジュリーの凄まじい人気を物語るエピソード
- 幼少期からの生い立ち
- アマチュアバンド「ファニーズ」時代
- 「ザ・タイガース」としてプロデビューし大ブレイク
- 伝説のバンド「PYG(ピッグ)」
について紹介します。
沢田研二(さわだ・けんじ) プロフィール
- 生年月日:1948年(昭和23年)6月25日 ※2024年で76歳
- 本名:澤田研二(さわだ・けんじ)
- 愛称:ジュリー
- 出身地:京都府京都市 ※出生地は母の実家がある鳥取県鳥取市
- 身長:171cm
- 血液型:A型
- 学歴:京都市立第三錦林小学校卒業→京都市立岡崎中学校卒業→京都府立鴨沂高等学校中退
ザ・タイガース時代のジュリーの美しさ・かっこよさ・イケメンぶりを物語るエピソードはたくさんあります。
イケメンすぎて失神する女子が続出!!
ジュリーは高校時代に「ファニーズ」というバンドを結成し、京都・大阪で活動していました。
1966年(昭和41年)にスカウトされて上京し、バンド名を「ザ・タイガース」に変更して、大手芸能プロの渡辺プロダクションに所属しました。
中尾ミエさんをはじめ、渡辺プロ所属の女性タレントは全員、ジュリーの美しさにポーっとして卒倒してしまったそうです!(※1)
そしてザ・タイガース4枚目のシングル「君だけに愛を」では、ジュリーが客席のファンを指さし
君だけ~に~♪
と歌うシーンで失神女子が続出!
ジュリーの人差し指は「黄金の人差し指」と呼ばれていました。
失神したファンたちは、裏方スタッフがリヤカーに乗せて運んだそうです。とても重かったのだとか…(※1)
押しかけるファンに機動隊出動!!
デビュー当時、ザ・タイガースのメンバーは東京世田谷区・千歳烏山の合宿所で生活していました。
ファンは合宿所にも押しかけて、部屋をのぞきこむことがあったそうです。
ファンが大挙してやってくるので、機動隊が出動して整理にあたっていたとか!
そして移動のときはパトカーが先導したり、信号を止めたり・・・(※1)
ちなみにファンの間では、タイガースのメンバーの「実家訪問」がよく行われていたとか。
修学旅行で京都に行くときなどに、ジュリーの実家を訪ねる人が後を絶たなかったそうです。
「優しそうなお母さんで、ジュリーの子どもの時の写真を見せてくださって。今から思うとようあんな厚かましいことしました」
と、当時ファンだった女性は語っています(※2)
影武者でファンをおびき寄せている間にジュリー脱出!
そんなジュリーには当時、「影武者」が何人かいました。
コンサートが終わった直後は、興奮した女の子たちが大勢出待ちをしていて、会場から出られなかったので・・・
影武者が先に出て、女の子たちをひきつけている間に、隙をねらってジュリーが脱出。
トラックの荷台に隠れて抜け出すこともあったそうです・・・(※1)
あれから約50年が過ぎ、当時のおっかけギャルの皆さんも、今やおばあちゃん世代!
★70代になってもパワフルなジュリーの活躍は↓↓↓
昔も今も「推し」に熱狂するファンの姿は見られますが、昔のファンは見境がないというか、向こう見ずな勢いを感じますね。
- ※1:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 熱狂のザ・タイガース 2」週刊文春 2021年7月8日号
- ※2:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 熱狂のザ・タイガース 1」週刊文春 2021年7月1日号
類まれなる容姿と音楽センスに恵まれ、失神させた女子は数知れず。
そんなスーパースター・ジュリーの生い立ちと音楽活動は、どんな様子だったのでしょうか?
京都は銀閣寺の近くで、次男坊として生まれる
ジュリーは1948年(昭和23年)に、父・松雄さんと母・智恵子さんの次男として誕生しました。
出生地は両親の実家がある鳥取市。その後、京都市で育っています。
上にお兄さん、下に妹さんがいる3人きょうだいの真ん中です。
生まれ育った場所は銀閣寺の近く。
毎年8月16日の五山の送り火で有名な大文字山のふもとです。
当時、近くの白川通に路面電車(市電)が通っていて、ジュリーは「電車通りから3軒目の沢田さんちの次男坊」と言われていたそうです。(※)
第三錦林小学校時代~野球が大好きなスポーツ少年
ジュリーが通ったのは、地元の京都市立第三錦林小学校(だいさんきんりんしょうがっこう)。
子どもの頃の夢は「プロ野球選手」で、とにかくスポーツばかりやっていたと語っています。
でも心の底では、歌手や俳優に憧れていたとか。
ジュリーのお父さん(澤田松雄さん)は、昔俳優を目指しており、映画監督・衣笠貞之助(きぬがさ・ていのすけ)の付き人をしていました。
しかし結局松雄さんは、俳優になることをあきらめて、京都府舞鶴市にある火薬研究所の関連企業で働いていたそうです。
ジュリーはお父さんの姿を見て、歌手や俳優は実力だけではなれないのだと思ったようです。
ジュリーは「自分はどうせなれっこない」という気持ちで、実力が物をいう野球の練習に打ち込んでいました。(※)
★ジュリーの父・澤田松雄さんについては↓↓↓
岡崎中学校時代~プロ野球選手を目指すも挫折
中学校は、平安神宮の近くにある京都市立岡崎中学校。
ジュリーはイケメンと評判の野球部キャプテンで、ファーストを守っていました。
将来の夢はさらに具体的になり「立教大学へ進んでプロ野球選手になること」。
しかし、中学3年生のときの大会が京都市4位という残念な結果に終わり、野球をやめてしまいます。
鴨沂高校時代~空手部に入部するも中退
ジュリーは中学卒業後、京都御所の隣にある京都府立鴨沂(おうき)高等学校に進学します。
1872年創立の伝統校で、制服のないリベラルな校風でした(※平成25年度に制服を導入)。
ジュリーは空手部に入部しましたが、打ち込んでいた野球をやめて心にポッカリ穴が空き、学校に通うのが面白くなくなってしまったそうです。
音楽活動が本格化した後、ジュリーは鴨沂高校を中退することになりました。
※:2018年6月28日「法テラス」インタビュー Vol.2 沢田研二さん
ジュリーは高校1年のとき、友人の誘いで、京都の河原町仏光寺にあったダンス喫茶「田園」に出入りするようになりました。
ジュリーの親友のお姉さんの彼氏が「田園」のバンドマスターだったのです。(※1)
高校1年でダンス喫茶「田園」のステージに
当時のダンス喫茶は「不良のたまり場」。
ジュリーはダンス喫茶「田園」で、「おまえ、男前やないか」「1曲覚えてきたら歌わしたる」と言われて、一生懸命覚えて歌ったそうです。
ちょうどそのとき、京都の高校生4人のバンド「サリーとプレイボーイズ」がボーカルを探していました。
- 岸部一徳
- 瞳みのる
- 森本太郎
- 加橋かつみ
の4人です。
「田園で歌っている沢田研二」の評判を聞きつけた岸部一徳に誘われ、同年代に声を掛けられたことがうれしかったジュリーは、17歳でメンバーに加わりました。(※2)
京都から大阪へ進出し「ファニーズ」に改名
1966年(昭和41年)、ジュリーの加入と同時に、サリーとプレイボーイズは「ファニーズ」と改名。
和田アキ子さんも出演していた大阪の有名ジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションに合格し、週2日の契約で出演するようになりました。
ファニーズは会員300人のファンクラブができるほどの人気ぶりで、東京のプロダクションからスカウトを受けるようになったのです。
内田裕也にスカウトされて上京
ある日、ロック歌手の内田裕也氏がナンバ一番に来場しました。
内田氏はファニーズのステージを見て、自分のバックバンドにしたいと思い、「君たち、俺と一緒にやんねぇか」と声を掛けたそうです。(※3)
その後内田氏から音沙汰がなかったので、ファニーズのリーダー・瞳みのるさんが単身上京して、裕也さんと面会し話を進める約束を取り付けました。
1966年10月にナンバ一番で、裕也さんが所属していた渡辺プロダクションのオーディションを行い、ファニーズは渡辺プロと正式に契約。
1966年11月9日に、東海道新幹線で上京したのでした。
- ※1:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 沢田研二を愛した男たち 3」週刊文春 2021年4月29日号
- ※2:2018年6月28日「法テラス」インタビュー Vol.2 沢田研二さん
- ※3:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 沢田研二を愛した男たち 2」週刊文春 2021年4月22日号
上京してすぐ、ファニーズはフジテレビ「ザ・ヒットパレード」に出演することになり、バンド名を変更することに。
当時フジテレビディレクターだったすぎやまこういち氏(ドラクエの全曲を作曲。2021年に死去)が、「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」と発言し、バンド名は「ザ・タイガース」になりました。
1967年(昭和42年)2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。
最初は売れ行きが伸び悩んだものの、翌3月には人気がブレイクし、5月発売のセカンドシングル「シーサイド・バウンド」は40万枚の大ヒットに。
テレビ出演により中高生にもファン層が広がり、活動の舞台はジャズ喫茶からコンサートへと移っていきました。
翌1968年には、発売するシングルが全て大ヒット。
3月10日には「花の首飾り」の新曲発表会を日本武道館で、8月12日には「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。
現在はトップアーティストたちが当たり前のように行っている「武道館コンサート」と「球場ライブ」を、日本人音楽バンドで初めてやったのが、ザ・タイガースでした。
4月には初の主演映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』が公開。
ザ・タイガースは、渡辺プロによるアイドル的な売り出しにより、グループサウンズ(GS)の頂点に立ちます。
★ジュリーの最初の妻は渡辺プロの先輩・伊藤エミ↓↓↓
ザ・タイガースは上京後、内田裕也氏の指示で、メンバーにニックネームを付けることになりました。
- 岸部一徳:のっぽのサリーから「サリー」
- 瞳みのる:キューピーから「ピー」
- 森本太郎:本名から「タロー」
- 加橋かつみ:トッポ・ジージョから「トッポ」
そして沢田研二は・・・
最初は歌手のジェリー藤尾のファンだったことから「ジェリー」にしたいと思ったそうです。
しかし名前をいただくのは失礼かと思い、同じくファンだった女優のジュリー・アンドリュースから「ジュリー」という名前にしました。
ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』は不朽の名作ですね!
ちなみに・・・内田裕也氏はジュリーの芸名を「沢ノ井謙」にしようとしてたそうです。
「名前はひとつでいい(=本名でいい)」とジュリーに却下されましたが・・・(※)
沢ノ井謙って演歌歌手みたいですよね(笑)
★2018年のジュリー・ドタキャン騒動に、内田裕也から愛のメッセージ↓↓↓
もともとビートルズやローリングストーンズを英語で歌っていたザ・タイガース。
アイドル路線の売り出し方をめぐって、メンバー間の意見に食い違いが生じます。
加橋かつみはアイドル路線を嫌いましたが、ジュリーは与えられた仕事に全力投球していました。
そしてデビュー当初から、容姿端麗なジュリーに人気が集中しており、徐々にギャラにも差が生じていき・・・
デビュー3年目の1969年(昭和44年)、加橋かつみがザ・タイガースを脱退し、岸部一徳の実弟・岸部シローが加入。
しかし、学生運動が広まるにつれて、メッセージ性あるフォークソングが台頭してきて、王子様スタイルのGSブームが終焉していきます。
ジュリー自身は最期まで解散に反対していたそうですが、そうしたグループ内外の動きによって、ザ・タイガースは解散。
1971年1月24日に日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を最後に、4年間の活動を終えました。
ジュリーはこの頃のことを
ザ・タイガースはたった4年間でしたが、チョコレートの会社の宣伝で、自分の顔が街角街角に貼り出されたり、今では当たり前になっていますが後楽園球場でコンサートをやったり。
実際は七転八倒してきた結果ではあるけれど、誰もができることではない、貴重な経験をさせてもらったと思います。
と振り返っています。
1971年2月1日、新しい音楽グループ「PYG(ピッグ)」が誕生します。
メンバーは
- 沢田研二(元 ザ・タイガース)
- 岸部一徳(元 ザ・タイガース)
- 大野克夫(元 ザ・スパイダース)
- 井上堯之(元 ザ・スパイダース)
- 萩原健一(元 ザ・テンプターズ) ※ショーケン
- 大口広司(元 ザ・テンプターズ)
という、グループサウンズ(GS)のトップメンバーたち。
ザ・タイガースの少し前にザ・テンプターズが解散したとき、内田裕也氏が「沢田とショーケンのバンドを、どうしてもやりてえ」と言ったのだそうです。
岸部一徳がジュリーを誘い、ジュリーは「サリー(岸部さん)がいてくれるなら」と加入を決心。
ジュリーとショーケンのツインボーカルで、大野克夫・井上堯之といった一流プレイヤーが作曲・演奏を固めました。
ジュリーは、「PYGのときが一番楽しかった」「楽しくて楽しくてしょうがなかったなぁ」と振り返っています。
タイガース時代は難しい曲はできなかった。
ところが大野さんと井上さんがいてくれることで、「この曲やりたい」と言ったらすぐやってくれるわけね
とりわけ大野克夫氏は、京都は四条堀川の呉服屋に生まれ、お父さんは尺八奏者、お母さんは琴奏者。
家にはピアノ・バイオリン・マンドリン・アコーディオン・尺八・三味線・琴などがあり、小さい頃から興味本位で触っているうちに、どんな楽器も弾けるようになったという音楽の天才でした。
PYGのメンバーが歌いたい曲のレコードを持ち寄ると、大野さんが次の日には楽譜にして、練習することができたのです。
思う存分練習ができて、歌いたい曲が歌える理想の環境でした。(※1)
がしかし、PYGの活動は、うまくいかないまま空回りしてしまいます。
というのも、コンサートが成立しない!
ひとつには、元タイガースのジュリーと元テンプターズのショーケンがいるので、双方のファン同士が会場で激しくいがみ合ってしまいました。
ジュリーが歌えば「ショーケン! ショーケン!」とタンバリンが激しく鳴り、ショーケンが歌えば「ジュリー! ジュリー!」と観客が騒いだのだそうです。
また、学生運動が下火になりつつあったとはいえ、一部が過激化していたこの時期、当時最大手の芸能プロダクションだった渡辺プロにより商業的なグループとしてつくられたPYGは、批判の的になりました。
1971年3月に京都大学西部講堂で開催されたデビューライブは、観客の罵声で会場は大混乱。
同年4月に日比谷野外音楽堂で開催された 日比谷ロック・フェスティバルでも、「帰れ」コールが響き渡り、ステージに物が投げられるなどの騒動になりました。
こうした中、ショーケンは役者としての活動、ジュリーもソロ歌手としての活動を本格化させていき、伝説のスーパーバンド「PYG」は自然消滅していきます。(※2)
- ※1:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 自由・反抗・挑戦 5」週刊文春 2021年10月21日号
- ※2:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 自由・反抗・挑戦 4」週刊文春 2021年10月14日号
最後に、ジュリーの若い頃(特にザ・タイガース時代)について、当時のマネージャーと各界の超大物有名人のコメントを集めてみました。
まず最初に、ザ・タイガース時代のマネージャーだった森弘明氏のコメントです。
ウエスタンカーニバルでもタイガースが登場すると地響きがして日劇全体が揺れるんですよ。人気は桁違いで、他のGSとは別物でした。飛行場でも、ファンが殺到するのでロビーは通れなくて、タラップの下に迎えの車を着けなきゃいけなかった。当時の地方の飛行場は今のように整備されていなくて、それでも塀を乗り越えて雲霞(うんか)の如くファンが押し寄せてくる。メンバーをガードしている僕はポケットを引きちぎられ、何着もスーツをボロボロにされました。
次に、有名司会者・浜村淳氏のコメント。
私が鮮明に記憶しているのは、ファニーズの中に沢田研二という美少年がおりまして、彼がタンバリンを激しく身体に打ちつけながら歌ったんです。するとそのうちタンバリンの皮が破れましてね、ガーッと四方に飛んでいった。会場のお客さんは大興奮ですよ。随分盛り上がりました。だから渡辺プロダクションが目をつけて東京に引っぱっていった。そういうことだと思います。
当時のファンたちの熱狂ぶりがわかりますね!
次はなんと、元日本赤軍の重信房子氏。
グループサウンズでは、やっぱりジュリーのいるザ・タイガースを贔屓にしていました。活動をやる前の時代ですが、母も『ジュリーよ!』と沢田研二がテレビに出ると私を呼んでいました。母も好きだったのかも。彼はソロになってからも年々よくなっています。政治的発言を聞いても、まっとうな立場です。
学生闘士だった重信房子氏もジュリーファンだったとは驚きです。
そして最後に、ザ・タイガースより数年遅れてキャロルとしてデビューした、矢沢永吉氏の1973年(昭和48年)のコメントです。
あれだけの体制を動かしたのは何かと考える場合、非常に興味はありますね(中略)うちのマネージャーにも言ってるんですけど、一度逢って話をしたいですね。とにかく《タイガース》の沢田研二は最高ですよ。
ジュリーの存在感は、多くのカリスマたちも特別視するほど。
まさしく時代のスーパースターだったといえますね!
★スーパースター・ジュリーと現在の妻・田中裕子のなれそめは…↓↓↓
この記事では、
- ジュリーの昔の凄まじい人気を物語るエピソード
- 幼少期からの生い立ち
- アマチュアバンド「ファニーズ」時代
- 「ザ・タイガース」としてプロデビューし大ブレイク
- 伝説のバンド「PYG(ピッグ)」
について紹介しました。
ジュリーのザ・タイガース時代のとてつもない人気に驚きますね!当時ファンの熱狂もすごい!!
そんなジュリーが少年時代はプロ野球選手をめざし、一心不乱に練習していたというのは意外です。
そんな一生懸命さが、スーパースター「ジュリー」を生み出す原動力になったのでしょう。
★次記事は…「ジュリーのソロデビューから独立までの人気絶頂期まとめ」↓↓↓