ジュリーこと沢田研二さんは、言わずと知れた日本芸能界のスーパースター。
1960年代後半にグループサウンズ「ザ・タイガース」としてデビューし、若い女性たちのカリスマに。
1970年代から80年代にかけてはソロ歌手としてヒット曲を連発し、1977年に「勝手にしやがれ」でレコード大賞を受賞しました。
そんなジュリーは2回結婚をしていますが、最初に結婚したのは、当時大ヒット歌手だったザ・ピーナッツの伊藤エミさん。
このブログ記事では、沢田研二さんと元妻・伊藤エミさんの比叡山結婚披露フリーコンサート、2人のなれそめ、離婚、伊藤エミさんの最期についてまとめます。
★沢田研二(さわだ・けんじ) プロフィール
- 生年月日:1948年(昭和23年)6月25日 ※2024年で76歳
- 本名:澤田研二(さわだ・けんじ)
- 愛称:ジュリー
- 出身地:京都府京都市 ※出生地は母の実家がある鳥取県鳥取市
- 身長:171cm
- 血液型:A型
- 配偶者(1):伊藤エミ(歌手 ザ・ピーナッツ) ※結婚期間:1975年~1987年
- 配偶者(2):田中裕子(女優) ※結婚期間:1989年~現在
★ジュリーの生い立ちについてはこちら↓↓↓
★伊藤エミ(いとう・えみ) プロフィール
- 生年月日:1941年(昭和16年)4月1日
- 没年月日:2012年(平成24年)6月15日(享年71歳)
- 本名:澤田日出代(旧姓:伊藤)
- 出身地:愛知県常滑市(生まれてすぐに名古屋市に転居)
ジュリーは1975年(昭和50年)、ソロ活動を始めて4年目の人気全盛期に、最初の結婚をしました。
当時27歳だったジュリーと、34歳だった伊藤エミさんは、ともにトップアイドル同士…
★ソロデビュー後のジュリーの国民的人気についてはこちら↓↓↓
そんなジュリーとエミさんが結婚することになり、なんとファン2万人を無料で招待して、比叡山で結婚披露コンサートが行われたのです。
当時の記事によると、制作費は2,000万円以上かかったとか・・・
比叡山へのケーブルカーを運行する京福電鉄やバス会社と交渉して、通常のケーブル代やバス代に何百円かを上乗せして捻出したそうです。(入場料無料で往復バス代1,200円が個人負担)※1
比叡山・蛇ヶ池人工スキー場のスロープの下に幅50メートル、高さ15メートルの特設ステージを築き、40台のアンプを設置し、150個のスピーカーを両サイドに積み上げました。
1975年7月20日当日、朝早くから、京都駅などから比叡山まで約500台のバスで観客をピストン輸送。(※2)
(なんと2週間前から、平安神宮のバスのりばで並んでいたファンもいたそうです!!)
★比叡山に向かうファンに、ジュリーの父・松雄さんが、自宅近くから手を振ってくれたそうです↓↓↓
渡辺プロからの要請で、京都府警から警官100名、大阪パトロール会社のガードマン100名、場内整理のアルバイト学生300名も動員されていました。
とんでもない規模ですね!
午後1時に比叡山延暦寺釈迦堂で、ジュリーと伊藤エミさんは挙式を済ませました。
そしてクジャクの刺繍をほどこしたピンクのチャイナスーツに身を包んだジュリーが、白いリンカーンのオープンカーに乗って、午後3時過ぎに野外ステージへ登場。
約1時間10分にわたって歌った後に、ジュリーは次のように結婚報告をしました。
いま、延暦寺の釈迦堂で二人だけの結婚式を挙げてまいりました。
すでに皆さんご承知のことと思いますが、私、六月四日に入籍しました。いろんな受けとめ方をされていると思いますが、これは事実は事実として受けとめて欲しい・・・。
いまボクの周りには”幸せ”とか”おめでとう”の言葉がはん乱していますが、ボクにとって幸せとはこんな結婚ごときではないのです。
”妻”に対してむげに扱っているわけではないが、タイガース時代、ピッグ時代…とついてきてくれた皆さんとボクの関係は妻にも犯し難いものです。歌手であるジュリー、沢田研二を今後ともよろしくお願いします。
そして白いウェディングドレス姿のエミさんが登場し、ジュリーはファン2万人の前で、「僕の妻です」と紹介しました。(※3)
妻という言葉に、会場のファンたちの悲鳴・鳴き声・拍手・歓声が・・・
全盛期のジュリー人気、本当にすさまじかったんですね!
そして、ジュリーのアーティストとしてのプロ意識もすごい!
- ※1:https://twitter.com/isonomiya1/status/1096374992911065088/photo/1
- ※2:島﨑今日子「短期集中連載 ジュリーがいた 自由・反抗・挑戦 4」週刊文春 2021年10月14日号
- ※3:2万人は主催者発表で、正確には約15,000人
伊藤エミさんは、双子女性デュオ「ザ・ピーナッツ」の姉です。
愛知県出身のエミさんは、一卵性双生児の妹・ユミさんと一緒に、小学生だった10歳のときからNHK名古屋放送局の唱歌隊に所属。
愛知県名古屋市立西陵商業高等学校(現・名古屋市立西陵高等学校)を2年で中退し、名古屋市内のレストラン「ザンビ」で伊藤シスターズとして歌っていました。
1958年(昭和33年)に渡辺プロダクションの創設者・渡辺晋社長にスカウトされて上京。
渡辺社長の自宅に下宿しながら、宮川泰氏に歌のレッスンを受けます。
宮川氏といえば、日本のポップスを創り上げた作曲家の1人で、代表作は「宇宙戦艦ヤマト」です。
伊藤エミさんとユミさんは、1959年(昭和34年)にザ・ピーナッツとして「可愛い花」でデビュー。
翌1960年(昭和35年)には、日本でカラーテレビの放送が開始して、まさしく日本のテレビ放送の黎明期でした。
フジテレビの歌謡番組「ザ・ヒットパレード」では1959年から1970年まで、10年間以上レギュラーとして出演。
日本テレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」では1961年から1972年まで、これも10年間以上、メイン司会として活躍。
フジテレビ「夜のヒットスタジオ」には、1969年以降40回登場。
NHK「紅白歌合戦」には、1959年(第10回)から引退前年の1974年(第25回)まで、16回連続で出場しました。
「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」「恋のフーガ」など大ヒット曲を連発し、レコード累計売上枚数は1000万枚以上を記録します。
日本の高度経済成長期に、まさしく一世を風靡したアイドルだったのです。
映画『モスラ』では小美人役として出演し「モスラの歌」を歌っています。
「モスラーヤ♪モスラー♪」のメロディーが頭にこびりついて離れない~!
さて、ジュリーと伊藤エミさんは、どのようにして出会って、お付き合いを始めたのでしょうか。
日本でテレビ放送が定着し始めた時期に、お茶の間の顔を務めたザ・ピーナッツ。
1970年~1971年に出した「東京の女」など4枚のレコードで、当時二十歳のジュリーが作曲を担当しました。
ザ・ピーナッツもジュリーも同じ渡辺プロダクションの所属。
この頃から、ジュリーと伊藤エミさん(当時27歳)は交際を始めたようです。
エミさんは7歳年上で、このとき既に芸能界で10年のキャリアがあり、タレントとしてはジュリーより格上の存在でした。
ザ・ピーナッツの芸能界引退
ジュリーと伊藤エミさんは、結婚に至るまでの交際期間が6年にも及んでいました。
1975年2月18日、渡辺プロダクションの社屋で、ザ・ピーナッツの引退記者会見が行われました。
伊藤エミさんは引退に際し、「惜しまれる時にやめたかった」とコメントを残しています。(※)
1975年3月から4月にかけ、大阪・京都・名古屋で「さよなら公演」を開催。
そして4月5日、NHKホールで昭和の名司会者・高橋圭三氏が司会をし、渡辺プロのタレントほぼ全員が見届ける中、最後のコンサートを行って、ザ・ピーナッツは16年の芸能生活に終止符を打ちました。
帝国ホテルで豪華披露宴をするはずが・・・
伊藤エミさんが芸能界を引退した後、1975年5月18日に婚約、6月4日に入籍。
入籍した日に、渡辺プロの渡辺晋社長につきそわれ、帝国ホテルで記者会見を行いました。
歌手として人気絶頂の2人でしたから、当初は披露宴も、大物政治家を主賓に招いて帝国ホテルで開催する予定だったそうです。
しかし、その話を聞いたプロデューサーの木村英輝氏が
「それはカッコ悪い。69年にジョンとヨーコはベッドイン(結婚時に行った平和活動パフォーマンス)してるのに、そんな布施明や森進一と張り合うようなことをするな」
と言ったそうです。
そして木村氏が「比叡山で式を挙げて、ファンのためにコンサートをしたらいい」と提案。
ジュリーが木村氏の提案について渡辺プロ社長に相談すると、その通りにするよう言われて、なんと比叡山での挙式と観客2万人のフリーコンサートが実現してしまいました!
それにしても、結婚もエンターテインメントにしてしまうジュリー、そして社長やプロデューサー、企画力と実現力がスゴイです!!
伊藤エミさんは、ジュリーとの結婚を機に芸能界を引退した後、公の場に姿を現すことはほとんどありませんでした。
結婚から4年経った1979年(昭和54年)に、長男(澤田一人さん)を出産されています。
しかし2人は、ジュリーと女優・田中裕子さんの不倫をきっかけに、1987年1月に離婚してしまいました。
翌月の1987年2月、ジュリーとエミさんの芸能界での育ての親ともいえる、渡辺プロダクション社長の渡辺晋氏が59歳の若さで亡くなり、葬儀には2人で揃って参列しています。(※1)
ジュリーと伊藤エミさんの離婚は、18億1800万円という巨額の慰謝料が、当時大きな話題になりました。
この金額は慰謝料・財産分与の総額で、東京世田谷の自宅・併設のテニスコート・伊豆の別荘などを含みます。
バブル真っ盛りの時代であり、この「離婚慰謝料18億円」は、現在でも日本の芸能界最高額として語り継がれています。
ジュリーは2001年に読売新聞の取材に答え、「僕にとって”痛み”は、離婚して、結局、一人の女性を幸せにできなかったことかもしれない」と語りました。(※2)
- ※1:2012年6月28日 日刊スポーツ「ザ・ピーナッツ姉死去 がん判明1カ月」
- ※2:2001年6月 読売新聞「光彩の時 聞き書き 沢田研二 3」
伊藤エミさんは2012年(平成24年)6月15日、ガンのため71歳で逝去されました。
離婚後も「澤田」姓を名乗り、東京世田谷区で息子さんと妹のユミさんと3人暮らしをしていたエミさん。
2012年春に、転倒により腰などを強く打ってしまいました。
なかなか治らないため、病院で精密検査を受けたところ、ガンが見つかったのだそうです。
残念ながらガンはかなり進行した状態で、判明からたった1ヶ月で亡くなってしまいました。
最期は妹さんら家族にみとられて、近親者のみで葬儀をされたそうです。(※)
エミさんが亡くなったことに関して、ジュリーは特にコメント等を出してはいません。
ちなみに、その4年後の2016年5月18日には、双子の妹の伊藤ユミさん(本名:伊藤月子さん)が75歳で逝去。
ユミさんは生涯独身で、引退後はファッションデザイナーをされていたそうです。
最後に、沢田研二さんが伊藤エミさんをファンにお披露目した「比叡山フリーコンサート」を、リアルタイムで見に行った方々の体験コメントを紹介したいと思います。
ジュリーがステージに登場するまでの一番の想い出は、真夏の山道を何台も続くバスの大行列と、着いた途端に青い顔で倒れる若い女の子たち。
救護所で寝ていた彼女たちが、ジュリーが来た~の声でムックリ起き上がって、そのまま救護所から飛び出していった姿です。
「僕の妻です」と言われ、ファンの拍手と歓声に包まれて、鉄砲ユリを抱えたエミさんはつつましく涙を流し、きれいでした。
悲しかったけど「おめでとう!」を心から言えました。行けてよかった!その瞬間に立ち会えて幸せでした。
真っ先にファンに報告できたジュリーの笑顔と奥さまのうれし涙、とってもステキでしたね
私たちも負けずに幸せな結婚をしようねと友達と話しました。
当時、私はファンクラブに入っていませんでした。(中略)ファンクラブの事務所で招待券を配布するとの事でした。丁度その頃、父が東京に出張 頼み込んでもらってきてもらいました。
(中略)遠くて、声だけを聞いているようなコンサート だったと思うのですが、ラスト近く、私も坂をかけおりました。そしてやっと、ギターを持って唄うジュリーを見る事が出来ました。本当に素敵でした、それだけでも満足で、とても嬉しかった事を思い出します。
ファンクラブ以外の一般ファンにも、招待券を出してくれたからこそ、参加する事が出来たのですよね。「みんなに平等に」というジュリー の姿勢は変わらないですね。
比叡山コンサートのとき19才だった私。一人で参加しましたが、電車やバスでご一緒させていただいたお姉さま方の結婚に対する大ブーイングに驚いたものです。
コンサートで奥さまが現れたときも、周りのお姉さま方が、ひどい言葉を吐いていたことに傷ついていたものです。
比叡山のコンサートは私も千葉から参加しました。私はまだ学生だったので、バイトをして京都までの旅費を捻出。
暑かった事と本当にジュリーが結婚しちゃったんだぁという現実 不思議な感覚でした。
大好きなジュリーの結婚を悲しく思いながらも、頑張って祝福した熱烈ファンがたくさんいたのですね。
この記事では、沢田研二さんの比叡山挙式と結婚披露のフリーコンサート、元妻・伊藤エミさんとのなれそめ、2人の離婚、伊藤エミさんの最期についてまとめました。
比叡山フリーコンサートは、もう45年以上前のこと。
当時の高校生は還暦を過ぎ、当時の社会人は古希を超えた方も多いでしょう。
いろいろな意味で空前絶後のこのようなコンサートを見たら、一生の思い出になることは間違いないですね。